明治15年(1882)、世は自由民権運動のまっさかりである。自由党党首の板垣退助は東海道遊説の旅に出た。
4月6日夕刻6時、岐阜での演説会場から帰ろうとするところを暴漢が襲い、左胸などを刺され7か所の傷を負った。この時「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという有名な伝説が生まれたのである。板垣は反政府勢力の中心人物。政府とは非常な緊張関係になっており、政府が派遣した刺客ではないかとも考え、第2の刺客の襲撃を警戒していた。
この時の愛知県病院長兼学校長は、後に満鉄総裁、東京市長、内務大臣などになった後藤新平だった。
後藤は、翌7日に岐阜へ駆けつけ、板垣の治療をしようとした。しかし板垣は第2の刺客ではないかと警戒し一時は治療を断ったものの、周りの者の説得でようやく治療を受けたといわれている。12日には明治天皇の勅使が到着し慰問、15日に板垣は大阪へと向かった。
日本の歴史に残る大事件と堀川端の医学校は、一つの糸で繋がっていたのである。
この医学校は大正3年(1914)に鶴舞へ移転し、平成19年(2007)10月に跡地近くの堀川端に記念碑が設けられた。
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