御水主屋敷
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『御船御行列之図』 |
御船手役所から紫川を挟んだ南側には御水主屋敷があった。
左の絵の左端で堀川に流れ込んでいるのが紫川。その右が御水主屋敷で屋敷を取り囲む白壁と建ち並ぶ屋根が見えている。
「水主(かこ)」とは船乗りのことで、「御」がついて「御水主」と呼ばれたのは、水軍を始めとする藩船の運航に従事していたからである。紫川には川港が設けられ、水主はここに係留されている藩船の運航などに従事していたのであろう。
御水主屋敷は、以前は堀川西岸にもあり、西水主町という町名にもなった。今でも、この名残で岩井町線と江川線が交わる所は「水主町」交差点(中村区名駅南三丁目)と名づけられている。
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船頭重吉も住んだ 御水主屋敷
◇世界一長い漂流 督乗丸の遭難
江戸時代後期になると「尾州廻船」と呼ばれる尾張の海運業が活発になり、それにともなって海難事故もたくさん発生した。
名古屋納屋町(現:中村区、納屋橋の西)の小島屋庄右衛門の船 督乗丸は、文化10年(1813)10月下旬 江戸を出航し名古屋に向かった。船は1200石積み、乗り組んでいたのは船頭の重吉をはじめとする14人だった。 遠州灘を航行中の11月4日、嵐に遭遇、万策つき船は漂流し始めた。東南に流され赤道付近に達した後、北に向かい、翌々年の1815年2月14日になってカルフォルニアのサンタバーバラ沖でイギリス船ホーストン号に救助された。
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督乗丸乗組員の
慰霊塔
(熱田区 成福寺) |
漂流していた期間は実に1年4か月に及び、生き残っていたのは船頭の重吉を始めとするわずか3人であった。世界の海難史上でも一番長い漂流といわれている。
カナダやカムチャッカを経由して帰国する途中でさらに1人が亡くなり、2人がロシア船で日本に送り返された。エトロフ島に着いたのは1816年7月9日、2年8か月ぶりに日本の土地を踏むことができた。
鎖国をしていた当時の日本では、海外からの帰国者には取調べが待っている。松前から江戸に送られ、故郷の尾張半田村へ帰ることができたのはさらに1年近く経過した1817年5月であった。
◇御水主に召し抱えられた重吉
帰国した重吉は、「小栗」姓を与えられ、御水主として尾張藩に召し抱えられた。
しかし重吉は、わずか2か月で辞職し、その後は亡くなった仲間の菩提を弔う供養塔の建設に尽力した。
供養塔は最初笠寺観音に建てられたが、その後熱田の成福寺へと移され、今も悲劇を伝えている。
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