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名古屋開府前 広大な境内
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応神天皇、神功皇后、三女神を祀る泥江縣(ひぢえあがた)神社は広井八幡宮とも呼ばれ、名古屋の町ができる以前からずっとこの地に鎮座している。
名古屋開府以前は非常に広い境内であった。『尾張年中行事絵抄』には次のように書かれている。
「社境(しゃけい)も広く、東は伏見町の東がわの町家の裏とかばやき町の屋敷の境に小社今にありて、剣宮と称ず、是当社の末社たりといふ。此辺も地内と見ゆ。南は納屋橋詰御蔵のそとに榎あり。是も神木といへり。西は堀川をへだてて裏町の神明宮、弁才天の社今以て当社の控へなれば、社境と見ゆ。北は桜之町の白山之社も一つの山林の内にして宿院(おたびしょ)とす。」 東は伏見通の東、西は堀川の西にある花車神明社、北は桜通の白山社、南は広小路通あたりまでが境内だった。
城下町の建設で大幅に境内が狭くなり、戦災復興の土地区画整理で更に減り、昭和42年に現在の社伝を建築する時に社地の整理を行って現在の姿になっている。
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『尾張名所図会』 |
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平安時代に創建
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全国に4万社余りあるといわれている八幡社の総本宮が、大分県宇佐市にある宇佐八幡宮である。社伝では広井八幡宮は、貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請したと伝えられている。
広井八幡宮が勧請された同じ年には、岩清水八幡宮(京都府八幡市)も勧請されている。この年は、源氏の祖と言われる清和天皇が即位した年でもある。
八幡神は軍神(いくさがみ)と言われ、国家鎮護の神として大和朝廷と深いつながりがあった。
九州では720年に「隼人の乱」、740年に「藤原広嗣の乱」がおき、大和朝廷は宇佐八幡に祈願の勅使を派遣し乱を平定した。これを契機に軍神としての評価が高まったようである。
大和朝廷にとり東日本の併合は永年の課題であった。延暦20年(801)には坂上田村麻呂が4万の兵を率いて阿弖流為(あるてい)と戦って勝ったが、その後も「まつろわぬ民」と呼んだ蝦夷の抵抗に度々あい、この時代も手を焼いていた。
古代、尾張は大和朝廷と密接な関係を持っていた。神話では、日本武尊は熱田の宮簀媛命(みやずひめのみこと)と結婚し、焼津を経て関東へと遠征し、内津峠を通って熱田へと帰ってきている。熱田は東国遠征の基地になっていたのだ。大和朝廷の軍神である八幡宮が石清水八幡宮と同じ時期にここへ勧請されたのは、あるいは古代から続いたこのような関係からかもしれない。
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神社の名前
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名称の一つ「広井八幡」は、名古屋開府以前の広井村が名古屋台地の上のこの付近にあり、広井村の氏神である八幡社ということでこの呼び名が生まれた。城下町の建設により村は堀川の西へ移転し、氏神も神明社(花車神明社)に変わったと伝えられている。
もう一つの名称は、境内入り口の石柱に刻まれている「泥江縣神社」である。「泥江」は『名古屋府城志』に「広井の古称という言い伝えがある」と記されており、「泥江縣神社」は泥江に鎮座する「縣神社」という意味になる。
では「縣神社」とは、一体何であろうか。
昭和20年から10数年間この神社の宮司を務めた後藤邦四郎氏が書いた『泥江縣神社小伝』という本がある。それによると、
「国の長官が国造(くにのみやつこ)で、その下に縣(あがた)の長である縣主がおり、応仁の乱(1467)以前に縣主という偉い人が修復したことから、他の神社とは異なるというプライドを込めて「縣神社」という名が付いたということである。修復したのは足利義満の命で尾張に赴任した斯波義兼(義廉(よしかど)と書かれている所もある)で、祈願神社としてこの神社を奉祀し神領として三町六反を寄附した」としている。
しかし斯波義兼という人は調べてもよく分からない(鎌倉時代に足利義兼は存在)。一方、斯波義廉は文安2年(1445)頃誕生し尾張などの守護となるが、応仁の乱に参戦して死亡年は不明という人物であることから、義廉のことを言っているのではなかろうか。義満が命じたとなっているが、室町幕府の3代将軍だったのは1367~94年で1408に亡くなり、義廉の誕生はそれより30年以上後なので誤記と考えられる。
国造や縣主は律令制以前の制度で室町時代には存在しないが、守護などが古代の縣主に相当する支配者ということで比喩として縣主を名乗ったのかも知れないが、今となっては確認するすべがない。
インターネットやグーグルマップで「縣神社」を検索すると何件か見つかる。清須市、一宮市、阿久比町、武豊町、岐阜市、多治見市、各務原市、八百津町、下呂市、四日市市、宇治市、出雲市(島根県)、大網白里市(千葉県)などに縣神社がある。地名が付加されたものは、御野縣主神社(大阪府八尾市)、久米御縣神社(奈良県橿原市)、葛城御縣神社(奈良県葛城市)小田井縣神社(兵庫県豊岡市)がある。類似の名称では大縣神社(犬山市)、田県神社(小牧市)、縣主神社(岡山県井原市)などがある。各地に点在しているが九州・四国・東北地方では見つからない。早くから大和朝廷の影響があった地域だけに創建されたのだろうか。とりわけ東海3県は密度が高いのが不思議である。
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つんぼ恵比須
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引っ越してきた神様
広井八幡宮の拝殿の右奥には、多くの社が並んでいる。その中でも一番大きいのが恵比須社である。
実はこの神様、天保6年(1835)10月1日に山王稲荷(現:古渡町交差点南西)から引越してみえた。下の絵は、それを迎えるための行列の様子を描いたものである。
山王稲荷にあった社が痛んできたものの、氏子が少なく修理もままならない‥‥これを聞いた広井八幡の神主さんが、八幡宮へ遷座することにし、下園町・米倉町・御園片町・船入町・葭町・伊倉町・中御園町など多くの町内からお迎えの人が出た。
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山王稲荷にあった古社を車に積んで運んできたが、御園町から袋町への木戸では社の屋根がつかえるので少し屋根をとり、八幡宮に着いたら門から入らないので、塀を2間(3.6m)ほど取り払ってやっと入れたとのこと‥‥大変な引越しだったようである。
趣向を凝らしてこれほどの行列でお迎えに行くとは、広井八幡宮の氏子たち、堀川沿川や碁盤割の商人だけあって相当の財力があったようだ。 |
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『名陽見聞図会』 |
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変わった参拝方法
この社のお参りの仕方は変わっている。普通は柏手を打つのだが、ここでは備え付けの板を木槌で打ってから参拝するのである。祀られている神様は「つんぼ恵比須」と呼ばれて耳が聞こえない神様なのだ。このため柏手を打っても聞こえないので、木槌で打って参拝者が来ていることを知らせてから、お参りすることになっている。 |
堀川の舟運
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境内に入って行くと、拝殿手前の太い木の根元に、常夜燈の竿部分がひっそりと立っている。「当国江戸廻」「天保十二年」(1841)と刻まれている。
『泥江縣神社小伝』によると大船町廻船問屋中が奉納したものとのことである。文化14年(1817)に出された御触れでは、堀川での米や雑穀の輸送は六軒問屋と米穀問屋27軒にしか許されていなかった。大船町(五條橋~中橋の西岸)にも川伊藤家などの米穀問屋があり、輸送を行っていた。
この神社には宗像三女神・住吉社・金刀比羅社があるので、航海の安全を祈って奉納したのであろう。堀川の舟運と江戸廻船による物資輸送がしのばれる遺品だ。
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昔は子ども相撲の興行も
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江戸時代の寺社は、広い敷地を活用して興行の場にも使われた。
ここ広井八幡宮では、天保6年(1835)閏7月23日から、晴れの日10日間ほどの、子供相撲の興行があった。
非常に人気を呼び、境内や門前は大賑い、ご祝儀の品が伝馬橋のたもとまで並んだ。『名陽見聞図会』に描かれている右の絵は、その時の伝馬橋の様子だ。米俵や薦かぶりの酒樽らしきものが積まれている。
広井八幡の神は軍神(=弓馬の神)なので、弓がよく当たる事と、興行が当たることをかけて、
弓矢をバ 守らせ玉ふ 神なれバ
子供相撲も あたりこそすれ
という狂歌が詠まれている。
『名陽見聞図会』の天保3年(1832)から天保10年(1839)の記録には、
天保3年(1832) 3月 花相撲の興行
天保6年(1835) 2月 鉄扇浮世ばなし興行
天保7年(1836) 8月 相撲の土俵入り
が行われたと書かれている。 |
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