壮大な伽藍
真宗大谷派名古屋別院
 通称 東別院とかお東さん、御坊さんと呼ばれているが、正式名称は真宗大谷派名古屋別院。真宗大谷派の、この地域における中核施設である。
 広い境内に大きな本堂や山門がそびえ、境内にはいくつもの碑が建っている。

    元禄3年 現在地に   境内の碑



元禄3年 現在地に

 真宗大谷派名古屋別院の元は、天正9年(1581)に僧祐右が蟹江村で建立した泉龍寺である。慶長11年(1606)に名古屋に遷されたが小さな寺であった。
 それから80余年後の元禄3年(1690)に、本山門主である一如上人は尾張藩主光友の許可を得て、泉龍寺を少し改修して7月に掛所にした。

 そのような背景のなか、元禄3年(1690)12月に(資料によっては翌4年)二代藩主光友がここの土地10,000坪を寄進したので移転し坊舎の造営を始め、元禄15年(1702)に本堂が完成した。
 その後、文政5年(1822)に本堂の改築が完成し、その壮大な建物は戦前まで名古屋名所を紹介する絵葉書には欠かせない一枚であった。
 しかし昭和20年3月12日の空襲により境内のほとんどが焼け落ち、残されたのは東門と元禄5年(1692)鋳造で市の指定文化財になっている鐘だけとなってしまった。今の本堂は昭和41年に再建されたものである。


1822年建築の旧本堂 『絵葉書』 戦前



境内の碑
 境内の南西にはいくつもの碑が建っている。その中に次の碑がある。

◇「古渡城趾」
 かつてここに古渡城があったことを伝えている。
 古渡城は天文11年(1542)[天文3年(1534)とも]頃に信長の父である織田信秀が築き、17年(1548)に末盛城(現:千種区 城山八幡宮一帯)を築いて移ったことで廃城になった。規模は東西140m、南北100mとのことなので、今の東別院の敷地に比べると、東西は3分の2、南北は半分ほどで、二重堀を設けており、信長はこの城で元服したと言われている。



◇「明治天皇行在所旧址」
 明治天皇がここで宿泊した事を記念したものだ。
 天皇は、明治11年(1878)・13年(1880)・20年(1887)・23年(1890)3月・同年5月・27年(1894)の6回、泊まっている。
 26年(1893)に名古屋城本丸が名古屋離宮に指定され、30年(1897)の名古屋訪問からはそれを利用するようになった。



◇「明治天皇名古屋大本営」
 明治23年(1890)3月から4月にかけて陸海軍の大演習がこの地方で行われ、その時にここに大本営が置かれたことを記念するものだ。






 2024/06/11