富士見原で陶器の製造
豊楽焼・富士見焼
 現在は都心の繁華街になっているが、江戸時代は城下町すぐ近くの郊外地で、江戸時代後期になると陶器の製造を始める人が現れ、瀬戸などの陶器産地とは異なり少量生産で個性的な陶器が多く作られ評判となった。明治になると規模が拡大し、明治末から大正にかけては新たにタイルの製造も始まった。

    前津の陶器製造と藤の花   豊 楽 焼   不 二 見 焼



前津の陶器製造と藤の花
   『尾張年中行事絵抄』に次のように記録されている。

 「前津富士見 素焼之藤
 もとは、素焼師の豊八といふ者、美濃国の産なりしが、爰に来住して、茶碗其外いろいろの土細工をなす。甚工みなりし。但し瀬戸の如き薬はかけず、それゆへに素焼の名を得たり。
 其庭に植たりし藤、次第次第に花うつくしく咲て、いつとなく諸人の遊観する所となれり。
 其後、土細工を門弟にゆづりしよし、近年にいたりて、今は端出(はで)なる茶店の如き宴会の席となれりしより、藤も一しほ色気ある、美しいやつも出かけ侍りぬ」



『尾張年中行事絵抄』
 前津で加藤豊八が素焼の陶器を作るようになった。庭の藤がきれいで見に来る人が増えたので弟子に仕事を譲って、茶店の経営に専念するようになったと言う事である。



豊 楽 焼
 豊八から事業を譲られた弟子は高木豊助で、自然翁豊楽の号を用いていた事から豊楽焼と名乗った。
 その子である二代目豊助が跡を継ぎ、天保13年(1842)に藩の陶器師になった。時の藩主斉荘(なりたか)は「豊楽」と自分で書いた額を与えている。
 弘化元年(1844)には、陶器の外面に漆を塗り蒔絵をする技法を開発し、当初の素焼の陶器とはまったく異なるものを作り出した。
 豊助は安政5年(1858)に46才で亡くなったが、事業は名古屋市史編纂〔産業編は大正4年(1915)刊〕の頃も続いていたという。

 なお、この豊楽焼の系統で嘉楽焼が松元町(現:千代田一・二丁目 新堀川の東)で焼かれるようになった。


『尾府全図』 明治2年


不二見焼
   藩士の村瀬八郎右衛門が嘉永5年(1852)頃から趣味で焼き物を作り始めた。

 その息子である亮吉が明治12年(1879)に上前津の別邸に窯を築いて、瀬戸から招聘した陶工4人と父子の6人で製陶業を開始。初期は大池(鞠ヶ池)で取った陶土を使い茶器や食器を製造した。その様子は明治21年(1888)刊行の『尾陽商工便覧』に掲載されている。
 その後徐々に拡張して明治33年(1900)には職工が13人に増えている。



『尾陽商工便覧』 明治21年

 明治41年(1908)に丸太町で不二見焼(資)が設立された。作られたのはそれまで富士見で焼かれたものとはまったく異なる阿蘭陀(おらんだ)焼に似た硬質陶器である。だが大正(1912~)になるとその製造は終わってしまった。
 代わりに作られたのはタイルである。日本にタイルが入ってきたのは明治39年(1906)頃で、イギリスから商品見本として神戸の貿易商に送られてきた。これを不二見焼の村瀬二郎麿がみて将来有望な事に気がつき、苦労を重ねて試作研究して41年(1908)に製造に成功した。
 タイルは好評で、大正7年(1918)には佐治タイルが設立されるなど製造者が増え、販路は海外へも広がっていった。




 2024/06/10