大正デモクラシー
愛知時計電機

 愛知時計電機は白鳥橋南西にあり、昭和20年6月の熱田大空襲によりたくさんの犠牲者を出したことで知られている。白鳥橋に会社が移ったのは大正12年、それ以前は新堀川の宇津木橋南東にあった。
 宇津木橋にあった頃は大正デモクラシーと呼ばれ、労働運動が勃興した時代であった。愛知時計電機でも大規模なストライキが行われた歴史が残っている。




◇宇津木橋南東に愛知時計電機
 明治26年(1893)に愛知時計製造(資)が設立され、31年(1898)に株式会社となった。
 大正元年(1912)に社名を愛知時計から愛知時計電機に改め本社も東橘町(東本願寺別院の西)から宇津木橋南東の東川端町へ移転した。なお、12年(1923)に本社を堀川に架かる白鳥橋南西の船方へ移転している。

◇大正デモクラシー
 大正期は、普通選挙・男女平等・労働者のストライキ権・自由教育など、さまざまな運動が活発になり、大正デモクラシーと呼ばれている。

 大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発し7年(1918)に終戦となった。戦争が始まるとヨーロッパの生産力は大きく減少し、その穴埋めとして日本からヨーロッパやその市場であったアジア諸国などへの輸出が増えた。この結果、日本は大戦景気に沸き成金が生まれたが、一方では物価が高騰したので低所得者層は生活に困窮するようになった。



『名古屋枢要地図』
大正3年

 戦争が終わりヨーロッパの生産力が回復し出すと、今度は戦後不況に見舞われた。また、この時代は明治後期から日本の工業が発達し、たくさんの工場労働者が生まれていた。

 このような背景のなか労働運動も活発化し、全国的にストライキが頻発するようになった。名古屋でも賃上げなどを求めて、大正5年(1916)に愛知セメント、6年(1917)に木挽組合、近藤紡、7年(1918)に柴田鉄工所、東洋工業造船部などでストライキがあった。

◇愛知時計電機 大規模なストライキ
 そして大正10年(1921)に愛知時計電機で大きなストライキが行われた。
 10月4日に職工大会が開かれ、団体交渉権確認・労働条件の労使協議・本給の賃上げ・遅刻罰金制の廃止などの要求を決議した。
 翌5日午前に会社と交渉が行われたが決裂し、午後になると職工850人はストライキにはいり、デモ行進をした。宇津木橋南の会社から記念橋・上前津・栄・新栄を通り鶴舞公園まで行進し、奏楽堂周辺で集会を開いた。
 長期戦に備えて、本部や支部を職工の自宅などに設けて団結を図り、10日と13日は争議資金確保とPRのため石けんとタオルの行商をしている。

 これに対して警察は争議団幹部の5人を逮捕し、主要メンバーをしばしば召喚して活動を妨害し、会社は3名を解雇し役付職工の切り崩しに奔走した。
 14日に県の警察部長の調停により、要求事項の一部を認める事で妥結し10日間の争議は終わりを迎えた。




 2024/06/16