千石船に乗るお地蔵さん
光 明 院
 伝馬橋南西の堀川近く、立派な山門を構える光明院は、千石船に乗るお地蔵さんがあることで知られている。
 堀川沿川には、堀川の舟運とそれに連結する熱田からの海運により活発な取引をしている商人がたくさん店を構えていた。奉納されたお地蔵さんは、この地域の特性を表した、ここならではのものである。



   大乗山光明院は曹洞宗の寺で、『尾張名陽図会』によると天文年間(1532~55)に月秀和尚により開山され、元は今より東の旧広井村内にあったが、名古屋の町や堀川が出来たときに今の場所へ移転したという。

◇千石船に乗るお地蔵さん
 堀川端には住吉神社を始め、航海の安全を守る神様や仏様があちこちに祀られているが、光明院には千石船に乗ったお地蔵様がある。
 船に乗ったお地蔵様は、数は少ないが各地に点在している。それらは、簡素な小舟に乗っているが、光明院のは立派な千石船に乗った像だ。
 この地域では舟運による商取引が活発に行われており、航海の安全祈願や海難事故で亡くなった人たちの供養のために建てられたのだろう。



  ◇板子一枚下は地獄
 堀川端の豪商たちは日本各地と大きな取引をし、船でたくさんの商品が運ばれた。熱田湊に着いた廻船から小型の船に積み替えて堀川で城下へと運ばれたが、米や雑穀の取り扱いは江戸廻船問屋6軒と米穀問屋27軒に限定されていた。江戸時代の海運は菱垣廻船や樽廻船などの廻船(貨物船)で行われ、名古屋から江戸や大坂などへ盛んに行き来していた。

 熱田に所属する廻船は元禄3年(1690)には38隻、正徳6年(1716)には31隻あった。この他知多半島の各港に所属する廻船も100隻ほどが活躍していた。
 廻船は200~700石積みの和船が中心だ。和船は水密構造になっておらず、磁石はあったが海図と六分儀で自船の位置を確認する技術は無かった。地乗り(沿岸航法)では、山などを目印にして航海するが、座礁などの危険度が高い。船の改良により沖乗りも行われたが、磁石と勘が頼りである。このため、嵐に巻き込まれて沖に流されると、もはやおみくじで方向を占う以外に帰る術を持っていなかった。
 乗り組む船頭や水主は「板子一枚下は地獄」という命がけの仕事だ。堀川岸に店を構える廻船問屋や商店も、船が沈めば大きな損失をこうむり店の存亡にもかかわる。天気予報や航海術が未発達だったこの時代、航海の安全は神仏に頼るしかない。真摯な願いを込めてこのお地蔵様を奉納したことであろう。
 
   また、境内には元治元年(1864)建立の、大きな石板に三十三観音がレリーフされた物もあり、堀川端商人の豊かな経済力と神仏の加護に頼りながら生活していた時代を覗わせている。

 




 2022/02/18