お殿様の花見屋敷・料亭・発電所
中部電力 水主町変電所
 現在、中部電力水主町変電所が立地している場所は、江戸時代後期に堀川が名古屋きっての桜の名所になるとお殿様の花見屋敷が設けられた場所である。その後は金城館という料亭になり、さらに名古屋電燈の発電所と本社が所在する場所となった。明治の終わり頃は、ここから一手に名古屋と熱田へ電気を送っていたのである。


    お殿様の花見屋敷から料亭へ   名古屋電燈 誕生   水主町に発電所と本社
    水主町発電所休止と本社の再移転    



お殿様の花見屋敷から料亭へ 
◇10代藩主斉友の花見屋敷

 文化年間(1804〜18)に、御普請奉行の堀彌九郎が日置橋の南北に桃と桜の苗木を植え、数年経つと堀川は名古屋一の花見の名所となった。
 多くの人が花見に訪れ、そぞろ歩きや茶屋や屋台での一服、花見舟から風景を眺めたり三味線や太鼓に合わせて踊ったりして、春のひとときを楽しんだ。

日置橋西北の花見風景 『桜見与春之日置』
この絵が描かれた頃、まだ花見屋敷はできていない
 10代藩主ですでに隠居していた斉朝(なりとも)も花見がしたくなった。弘化年中(1844~8)に日置橋上流西岸にあった肥田孫左衛門の下屋敷を上地させ改修を行い、花見のための日置御屋敷にした。敷地は1,500坪あり、門長屋には透き見の窓を設け桜を眺めて楽しんでいた。

◇料亭金城館
 嘉永3年(1850)に斉朝が亡くなった後は、家臣や町人の所有する土地になり、明治の半ばには金城館という料亭になっていた。
 名古屋を代表する料亭で、衆議院議長の星亨が来名したときの歓迎会、大日本電灯協会の大会、全国酒造組合連合会の大会など、大規模な会合や宴会の舞台となった。


『尾州名古屋御城下之図』
明和・安永年間(1764~81)写




名古屋電燈 誕生
   明治22年(1889)12月15日、名古屋で初めて一般家庭でも電気がともった。電気の供給を始めたのは名古屋電燈(株)である。日本の電灯は明治20年(1887)11月に営業を始めた東京電灯をかわぎりに、神戸・大阪・京都で使用されており、名古屋は5番目であった。

◇失業士族救済のため設立
 この会社は時代を反映した特殊な事情により誕生している。
 明治になり秩禄処分が行なわれると士族たちに家禄が支給されなくなり、働こうにも仕事がなく士族の多くは生活が困窮してしまった。名古屋のような城下町は多くの士族が暮らしており、失業士族の救済が大きな課題となっていた。そのようななか、明治20年(1887)に政府から勧業資金が貸し付けられることになり、それを元手として電灯会社が設立されたのである。
 
◇最初は日没後3時間だけ
 南長島町に本社と発電所を設け、石炭火力でつくった電気を市内に送電した。
 『名古屋電燈株式会社史』によると、出力25㎾のエジソン型発電機(ドイツ製)4台を設置したとあるので合計出力100㎾で、直流250㌾の電気であった。
 開業時の電灯数は400個余で、給電は日没から3時間だけであった。その後、供給時間が徐々に延長され、5時間灯(午後11時まで)、半夜灯(12時まで)、2時灯(午前2時まで)が設定され、翌23年4月1日から夜明けまで供給する終夜灯が始まっている。

◇ランプより明るく扱いやすい
 当時一番需要が多かったのは、10燭光の半夜灯(夜12時まで)で、電球代は別で1か月80銭の定額料金であった。
 1燭光はロウソク一本分の明るさで、概ね1カンデラなので、10燭光は10カンデラにあたる。現在の8.2㍗LEDビームランプは1350カンデラなので、今の感覚ではずいぶん暗いが、それまでの行灯や灯油ランプに比べれば相当明るく、取り扱いが簡単で火災の心配が少ないという文明の利器であった。

 しかし明治33年(1900)頃の愛知物産組(織物工場)の給料を見ると、男子の月給が5~15円、女子の日給が10~35銭である。10燭光の電灯で月80銭の支出は庶民には大きな負担であり、電灯を引けるのはごく限られた富裕層だけであった。


『尾張名所図絵』 明治23年


『名古屋電燈株式会社史』
  ◇需要の増加 施設の増強
 開業から2年後の明治24年(1891)に濃尾地震に見舞われた。名古屋電燈も煙突の折損や建物の破損など大きな被害を被ったが、幸いボイラーや発電機などの損傷はなく、被災後2か月足らずで復旧できた。
 
 地震後、市民の間に防火意識が高まり、加えて翌25年には大須で134棟が燃える大火災が起きたこともあって、電灯の需要は増えていった。25年(1892)末には1,970灯、26年には2,630灯、27年には3,740灯に給電するようになった。このため、26年に25㎾発電機2台、27年・28年にも同規模の増設をし、合計250㎾の発電能力を備えるようになった。

◇競業社の出現 愛知電燈
 電灯の安全さと便利さが広く知られるようになり需要が高まると競争相手が現れた。愛知電燈(株)である。
 きっかけは大須にあった旭遊廓の電灯化である。旭遊廓の楼主たちはランプの使用を全廃し電灯に切り替える申し合わせをし、名古屋電燈へ割引料金による廓内への電気の提供を求めたが拒否された。このため、楼主などが愛知電燈を設立し、下広井町に発電所を開設して明治27年(1894)11月から送電を開始した。
 開業当時の発電能力は、直流発電機が2台で55㎾、交流発電機が6~800灯用で、いずれも石炭火力であった。

◇愛知電燈を併合
 名古屋電燈は対抗して料金を値下げするなどしたが、2社の競争を見て翌28年(1895)に日本電気協会は両社の合併を求める決議を総会で行い、29年に名古屋電燈が愛知電燈を吸収合併した。
 これにより、それまでの名古屋電燈の発電所を第1発電所、愛知電燈のを第2発電所と呼ぶようになった。また、愛知電燈は一部交流式を採用していたが、その機器で交流式の効果を試験し、その後交流式へ切り替える端緒となった。
 
 
※名古屋電燈創業の場所?
 名古屋電燈創業の地は、現在伏見にある電気文化会館の所と言われ、私もそう思ってきた。
 しかし明治時代の地図を調べると位置が合わない。電気文化会館があるのは伏見通から東へ2つめの街区だが、地図には3つめの街区に描かれている。しかも明治26年(1893)と33年(1900)の地図では道路を挟んで南北に異なった場所になっている。

 一体どこが創業の地なのだろうか。
 『名古屋電燈株式会社史』には入江町3丁目1番地と南長島町無番地にまたがる土地を毛利寅三から購入したと書かれている。入江町は広小路通の1本南の東西道路沿いで、南長島町は伏見通の2本東の南北道路沿いである。ちなみに現在の住居表示は街区単位で住所が決まるが、当時の町名は道路の両側が同じ町名になる。明治26年と33年の地図はどちらも社史に書かれている住所を満たしており、どちらが正しいか判断できず、この間に本社を移転した記録もない。
 時代を遡って明治2年(1869)の『尾府全図』を見ると南長島町と入江町の交差点北東に「毛利半二郎」の屋敷が記入されている。名古屋電灯が購入した相手の毛利寅三は半二郎の子孫の可能性が高く、明治33年の地図の場所が名古屋電燈の創業の地で、26年の地図は誤記ではなかろうか。

 なお、現在電気文化会館が建つ土地は、水主町へ本社を移し、その後前津小林へ一時移転して、明治45年(1912)に本社を構えた場所で、新柳町・南長島町・南桑名町にまたがる土地である。
 

『名古屋明細地図』
明治26年

『名古屋及熱田市街実測図』
 明治33年

『尾府全図』 明治2年
町名は明治中期のもの
 




水主町に発電所と本社
  ◇第3発電所 水主町に
 増え続ける需要と供給区域の拡大に対応するため、新しい発電所を建設することになった。

 一時期は現在の瀬戸市北部で庄内川を利用した水力発電を計画した。しかし、落差が少なく発電能力が低いことと、日清戦争後の不況により燃料の石炭価格が低下して火力発電が有利になったため、堀川岸の水主町に火力発電所を建設することに変わった。

 設備は4期に分けて順次拡張する計画で、明治34年(1901)7月22日に1期工事が完成して送電を始めた。それにより第2発電所は24日で発電を廃止している。

◇交流高圧送電の採用
 それまでの名古屋電燈は直流の低圧送電であった。直流は遠距離への送電ができず、1基の発電能力も200㎾が限界であった。

 供給区域が拡大してゆく趨勢から新しい発電所は交流の高圧送電を採用し、2相交流の2,300㌾、300㎾の発電機1基で発電し、100㌾に変圧して使用者へ給電する方法が用いられた。現在の送電方法に近い方式になったのである。
 
 
『名古屋電燈株式会社史』


『愛知県写真帳』 明治43年
  ◇設備増強と本社の水主町移転
 明治37年(1904)6月には第2期工事が完成して発電能力が300㎾増強されて600㎾になり、それに合わせて第1発電所の稼働は休止して予備発電所にした。これにより直流による送電はすべて廃止されたのである。

 名古屋電燈の発電はすべて水主町で行なわれ、本社を離れた南長島町に置くことは不便なため、明治37年7月に本社も水主町へ移転し、発電所名も第3発電所から水主町発電所に改称された。

『築港図名古屋測図』
明治41年
 その後も設備増強が引き続き行なわれている。
 明治38年(1905)12月に第3期工事が完成し、500㎾増強して1,100㎾の発電が可能となった。この時、蒸気を回転運動に変える機器として初めてスチームタービンが設置されたが、これは日本の発電事業では最初期の採用であった。
 翌39年(1906)12月には第4期工事も完了して500㎾増強され、1,600㎾の発電能力を持つようになっている。

◇日露戦争と昼間の送電開始
 名古屋電燈は社名の通り、当初は電灯への電気を供給するだけであった。明治35年(1902)に初めてモーターへの電力供給を始め、翌年には3基、37年(1904)には2基のモーターへ送電していた。しかしこの送電は夜間のみであった。
 明治37年(1904)2月に日露戦争が勃発した。兵器等の増産が必要となり、10月から昼夜兼行で200㌾の送電を始めた。これが昼間送電の始まりである。

◇東海電気・名古屋電力の併合
 成長産業である電気事業に参入する企業は多かった。
 東海電気(旧称:矢作川電力→三河電力)は、明治35年(1902)9月に瀬戸を供給区域として事業を開始した。37年(1904)1月からは名古屋市内での給電も開始し、営業成績は良かったものの名古屋電燈との競争で利益が上がらず、40年(1907)6月に名古屋電燈に吸収合併された。

 名古屋電力は明治39年(1906)11月に、東京と名古屋の財界人が設立した会社で、木曽川の八百津に水力発電所を建設して名古屋へ電気を供給する計画であった。資本金・発電量ともに名古屋電燈よりはるかに大きく、事業が始まれば名古屋電燈にとり大きな脅威となる。このため、明治42年(1909)に名古屋電燈の常務に就任した福沢桃介は合併をもくろんだ。名古屋電力側も、発電所建設に予想以上の工費がかかり苦しんでいた。
 このような事情から、明治43年(1910)10月に名古屋電燈が電力を吸収合併した。




水主町発電所休止と本社の再移転
  ◇長良川発電所 建設
 名古屋電燈は主に石炭による火力発電で電気を供給してきた。しかし石炭は価格の変動があり、とりわけ明治27年(1894)の日清戦争や37年(1904)の日露戦争では軍による船舶の徴発で輸送船が不足し、石炭価格は大きく上がっている。
 このため、41年(1908)から長良川発電所の建設に乗り出した。現在の美濃市立花に発電所を設け、2,500㎾の発電機3台(内1台は予備機)で5,000㎾を送電し、併せて西区児玉町に児玉変電所を設けて配電する計画である。43年(1910)3月15日に発電所・変電所共に完成して送電を始めている。

◇水主町発電所の休止・廃止
 長良川発電所の稼働開始により水主町発電所は送電を廃止することになり、長良川からの配電網に切り替える工事が終了した明治43年(1910)6月13日を最後に水主町からの送電は休止した。
 これ以降の水主町発電所は、長良川の渇水時などに備えた予備発電所として使用することにした。このため従来の2相2線式を3相3線式に改造している。
 水主町の発電機器は設置から10年以上経過して旧式となっており、石炭の効率も悪かった。このため大正7年(1918)3月22日に水主町発電所は廃止され、その代替として4年(1915)に完成している熱田発電所を拡張してている。


長良川発電所


児玉変電所
『名古屋電燈株式会社史』
◇本社の移転
 水主町の本社事務所は、企業合併により増加した従業員を収容するには狭くなり、長良川発電所が稼働し水主町発電所が予備発電所になると、本社を水主町に置くメリットはなく、都心の便が良いところに移転することになった。
 現在、伏見の電気文化会館が建つ土地を入手し、社屋を新築すると共に水主町の建物も移築することにした。このため明治44年(1911)6月1日にいったん本社を前津小林にある旧名古屋電力の建物へ移転し、新社屋の建築が完了した45年(1912)5月17日に伏見(新柳町)へ再移転している。
 なお、新社屋は名古屋の近代建築を数多く手がけた、名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)教授の鈴木禎二が設計している。

 

『名古屋市街全図』 大正6年

新築なった本社
『名古屋電燈株式会社史』

立太子奉祝(大正5年)
名古屋電燈の装飾
絵葉書

右のドームが名古屋電燈のビル、
左7階建ては住友ビル
絵葉書 戦前
  
 10年ほどの短い期間ではあったが、堀川岸の水主町変電所がある場所は名古屋の電気事業の本拠地で、名古屋や熱田へ一手に電気を送り市民の暮らしを支えていたのである。
 今は中部電力の水主町変電所として市内へ電気の供給を担い、堀川を横断する電線橋が架けられている。この電線橋の下に、かつて名古屋電燈の発電所だったときに使われていた排水路の遺構が今も残されている。




 2021/10/10