現在、中部電力水主町変電所が立地している場所は、江戸時代後期に堀川が名古屋きっての桜の名所になるとお殿様の花見屋敷が設けられた場所である。その後は金城館という料亭になり、さらに名古屋電燈の発電所と本社が所在する場所となった。明治の終わり頃は、ここから一手に名古屋と熱田へ電気を送っていたのである。 |
お殿様の花見屋敷から料亭へ | 名古屋電燈 誕生 | 水主町に発電所と本社 | |
水主町発電所休止と本社の再移転 |
10代藩主ですでに隠居していた斉朝(なりとも)も花見がしたくなった。弘化年中(1844~8)に日置橋上流西岸にあった肥田孫左衛門の下屋敷を上地させ改修を行い、花見のための日置御屋敷にした。敷地は1,500坪あり、門長屋には透き見の窓を設け桜を眺めて楽しんでいた。 ◇料亭金城館 嘉永3年(1850)に斉朝が亡くなった後は、家臣や町人の所有する土地になり、明治の半ばには金城館という料亭になっていた。 名古屋を代表する料亭で、衆議院議長の星亨が来名したときの歓迎会、大日本電灯協会の大会、全国酒造組合連合会の大会など、大規模な会合や宴会の舞台となった。 |
『尾州名古屋御城下之図』 明和・安永年間(1764~81)写 |
水主町に発電所と本社 |
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◇第3発電所 水主町に 増え続ける需要と供給区域の拡大に対応するため、新しい発電所を建設することになった。 一時期は現在の瀬戸市北部で庄内川を利用した水力発電を計画した。しかし、落差が少なく発電能力が低いことと、日清戦争後の不況により燃料の石炭価格が低下して火力発電が有利になったため、堀川岸の水主町に火力発電所を建設することに変わった。 設備は4期に分けて順次拡張する計画で、明治34年(1901)7月22日に1期工事が完成して送電を始めた。それにより第2発電所は24日で発電を廃止している。 ◇交流高圧送電の採用 それまでの名古屋電燈は直流の低圧送電であった。直流は遠距離への送電ができず、1基の発電能力も200㎾が限界であった。 供給区域が拡大してゆく趨勢から新しい発電所は交流の高圧送電を採用し、2相交流の2,300㌾、300㎾の発電機1基で発電し、100㌾に変圧して使用者へ給電する方法が用いられた。現在の送電方法に近い方式になったのである。 |
『名古屋電燈株式会社史』 『愛知県写真帳』 明治43年 |
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◇設備増強と本社の水主町移転 明治37年(1904)6月には第2期工事が完成して発電能力が300㎾増強されて600㎾になり、それに合わせて第1発電所の稼働は休止して予備発電所にした。これにより直流による送電はすべて廃止されたのである。 名古屋電燈の発電はすべて水主町で行なわれ、本社を離れた南長島町に置くことは不便なため、明治37年7月に本社も水主町へ移転し、発電所名も第3発電所から水主町発電所に改称された。 |
『築港図名古屋測図』 明治41年 |
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その後も設備増強が引き続き行なわれている。 明治38年(1905)12月に第3期工事が完成し、500㎾増強して1,100㎾の発電が可能となった。この時、蒸気を回転運動に変える機器として初めてスチームタービンが設置されたが、これは日本の発電事業では最初期の採用であった。 翌39年(1906)12月には第4期工事も完了して500㎾増強され、1,600㎾の発電能力を持つようになっている。 ◇日露戦争と昼間の送電開始 名古屋電燈は社名の通り、当初は電灯への電気を供給するだけであった。明治35年(1902)に初めてモーターへの電力供給を始め、翌年には3基、37年(1904)には2基のモーターへ送電していた。しかしこの送電は夜間のみであった。 明治37年(1904)2月に日露戦争が勃発した。兵器等の増産が必要となり、10月から昼夜兼行で200㌾の送電を始めた。これが昼間送電の始まりである。 ◇東海電気・名古屋電力の併合 成長産業である電気事業に参入する企業は多かった。 東海電気(旧称:矢作川電力→三河電力)は、明治35年(1902)9月に瀬戸を供給区域として事業を開始した。37年(1904)1月からは名古屋市内での給電も開始し、営業成績は良かったものの名古屋電燈との競争で利益が上がらず、40年(1907)6月に名古屋電燈に吸収合併された。 名古屋電力は明治39年(1906)11月に、東京と名古屋の財界人が設立した会社で、木曽川の八百津に水力発電所を建設して名古屋へ電気を供給する計画であった。資本金・発電量ともに名古屋電燈よりはるかに大きく、事業が始まれば名古屋電燈にとり大きな脅威となる。このため、明治42年(1909)に名古屋電燈の常務に就任した福沢桃介は合併をもくろんだ。名古屋電力側も、発電所建設に予想以上の工費がかかり苦しんでいた。 このような事情から、明治43年(1910)10月に名古屋電燈が電力を吸収合併した。 |
水主町発電所休止と本社の再移転 |
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◇長良川発電所 建設 名古屋電燈は主に石炭による火力発電で電気を供給してきた。しかし石炭は価格の変動があり、とりわけ明治27年(1894)の日清戦争や37年(1904)の日露戦争では軍による船舶の徴発で輸送船が不足し、石炭価格は大きく上がっている。 このため、41年(1908)から長良川発電所の建設に乗り出した。現在の美濃市立花に発電所を設け、2,500㎾の発電機3台(内1台は予備機)で5,000㎾を送電し、併せて西区児玉町に児玉変電所を設けて配電する計画である。43年(1910)3月15日に発電所・変電所共に完成して送電を始めている。 ◇水主町発電所の休止・廃止 長良川発電所の稼働開始により水主町発電所は送電を廃止することになり、長良川からの配電網に切り替える工事が終了した明治43年(1910)6月13日を最後に水主町からの送電は休止した。 これ以降の水主町発電所は、長良川の渇水時などに備えた予備発電所として使用することにした。このため従来の2相2線式を3相3線式に改造している。 水主町の発電機器は設置から10年以上経過して旧式となっており、石炭の効率も悪かった。このため大正7年(1918)3月22日に水主町発電所は廃止され、その代替として4年(1915)に完成している熱田発電所を拡張してている。 |
長良川発電所 児玉変電所 『名古屋電燈株式会社史』 |
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◇本社の移転 水主町の本社事務所は、企業合併により増加した従業員を収容するには狭くなり、長良川発電所が稼働し水主町発電所が予備発電所になると、本社を水主町に置くメリットはなく、都心の便が良いところに移転することになった。 現在、伏見の電気文化会館が建つ土地を入手し、社屋を新築すると共に水主町の建物も移築することにした。このため明治44年(1911)6月1日にいったん本社を前津小林にある旧名古屋電力の建物へ移転し、新社屋の建築が完了した45年(1912)5月17日に伏見(新柳町)へ再移転している。 なお、新社屋は名古屋の近代建築を数多く手がけた、名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)教授の鈴木禎二が設計している。 |
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10年ほどの短い期間ではあったが、堀川岸の水主町変電所がある場所は名古屋の電気事業の本拠地で、名古屋や熱田へ一手に電気を送り市民の暮らしを支えていたのである。 今は中部電力の水主町変電所として市内へ電気の供給を担い、堀川を横断する電線橋が架けられている。この電線橋の下に、かつて名古屋電燈の発電所だったときに使われていた排水路の遺構が今も残されている。 |
2021/10/10 |
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