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この寺や周辺地域は明治24年(1891)の濃尾地震で甚大な被害を受けた。『地震聚報』には次のように書かれている。
「当市の振動激烈なりしかため、堀川通りは河水を増し、船舶の衝突して納屋橋及び中橋、大幸橋に損所を出来し。納屋橋は馬車の通行を禁じ中橋は通行止となりたり(其他は無難)。
其より川西一般、即ち大舟小舟舟入の各町の裏に建列らねし四間道通りの土蔵は、七八分以上崩壊し其他広井花車何分小借家勝の処ゆえ彼所に八戸此所十戸算ふるに遑(いとま)あらず。目も当られざる有様にて中にも花車の常信寺(淨信寺)は本堂及び庫裡迄残らず破壊せり。」
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