浄信寺は戦災に遭わず120余年前に建てられた本堂がある静かな寺である。空襲による被害は受けなかったが、戦争の爪痕をしっかりと残している。立派な鐘楼があるが、そこには鐘がない。金属供出で失われてしまったのだ。鐘楼は戦争の愚かさを今に伝えている。
江戸時代初期に創建
濃尾地震で倒壊し再建
戦争遺産の鐘楼
江戸時代初期に創建
交通量の多い錦橋の北西に静かに建つのが、真宗大谷派の淨信寺である。
『尾張志』では寛永12年(1635)に僧理賢が建立し、聖徳太子が作った地蔵があるとしている。
一方『尾張名陽図会』では利海という僧が開基した寺で、広井の地蔵堂と呼ばれた小さな草堂に祀られていた地蔵を寺に伝えている。元は他の宗派であったが、宝暦10年(1760)に今の浄土真宗に変わった。類焼により古い記録が失われたので昔の様子は分からないとしている。
なお地蔵は現在秘仏として祀られている。
『尾張名陽図会』
濃尾地震で倒壊し再建
この寺や周辺地域は明治24年(1891)の濃尾地震で甚大な被害を受けた。『地震聚報』には次のように書かれている。
「当市の振動激烈なりしかため、堀川通りは河水を増し、船舶の衝突して納屋橋及び中橋、大幸橋に損所を出来し。納屋橋は馬車の通行を禁じ中橋は通行止となりたり(其他は無難)。
其より川西一般、即ち大舟小舟舟入の各町の裏に建列らねし四間道通りの土蔵は、七八分以上崩壊し其他広井花車何分小借家勝の処ゆえ彼所に八戸此所十戸算ふるに遑(いとま)あらず。目も当られざる有様にて中にも花車の常信寺(淨信寺)は本堂及び庫裡迄残らず破壊せり。」
淨信寺は本堂も庫裏も全壊し、門前の四間道沿いにあった蔵は7~8割が崩壊、周辺の民家も多くが倒壊したという。
それから6年後、明治30年(1897)に竹中工務店により本堂が再建された。幸い太平洋戦争では被災することもなく、120年以上経つ今もその姿を残している。
戦争遺産の鐘楼
無残なのは鐘楼だ。かつては寛政元年(1789)に鋳造された鐘があったが、太平洋戦争の金属供出で失われてしまった。
四本足で基壇に乗っているだけの鐘楼は重い鐘がないと台風などの時に倒壊してしまう。このため、戦災で焼けずに残った立派な鐘楼には鐘の代わりに石が釣り下げられている。寺院の鐘や家庭の鍋や釜まで供出した前の大戦の異常な様子を、鐘楼は今に伝えている。これは愚かな戦争の実態を目の当たりに見ることができる、貴重な戦争遺産の一つといえよう。
2022/02/20