城内の聖堂を移築
八角堂と呼ばれる法蔵寺
 堀川西岸に建つ法蔵寺は、通称八角堂と呼ばれている。境内に八角形のお堂があるからだ。このお堂は、名古屋城の二の丸にあった聖堂を移築した建物だ。残念ながら戦前に火災で失われたが、近年再建されユニークな姿を今に伝えている。

    通称「八角堂」 法蔵寺   広井天王みたらし



通称「八角堂」 法蔵寺
   久住山法蔵寺は天台宗の寺で、通称が八角堂だ。そう呼ばれるのは境内には珍しい八角形のお堂があるからだ。

 法蔵寺は転々と所在の変わった寺院だ。
 清須越の時に名古屋村六区(現:西区幅下一丁目)に移転。貞享2年(1685)に替地町(現:西区那古野一丁目)へ、享保元年(1716)には熱田新尾頭町へ移転している。9年(1724)に元は水主屋敷だったこの場所へ再移転し、その時に智鋒和尚が城内にあった聖堂を願い出て拝領し本堂とした。

 法蔵寺の本堂になった旧聖堂は、古い歴史を持つ八角形の建物だったので、通称「八角堂」と呼ばれていたが、惜しいことに昭和8年(1933)に焼失した。永らく基壇だけ残していたが、平成16年(2004)に再建されて、毎月第一土曜日に拝観することができる。

 なお寺の西にあるバス停の名は「八角堂前」となっており、この寺の通称が用いられている。

  ◇城内の聖堂を移築
 寺の入口に「源敬公創建 舊在城郭内釋先聖殿」の碑が建っている。これは、尾張初代藩主義直が創建し、以前は名古屋城内にあった孔子を祀る建物という意味だ。

 「友遠方より来たる また楽しからずや」など多くの言葉で有名な孔子は、紀元前551年に魯国(今の山東省曲阜)で生まれた思想家だ。仁と礼に基づく理想社会の建設を目指し、その言説は『論語』としてよく知られている。身分制度を肯定する思想なので、日本では江戸幕府により権威づけられ、各藩でも取り入れられた。

 孔子など聖賢を祀ってあるのが聖堂だ。江戸では、寛永9年(1632)に林羅山が自宅に聖堂を建て、元禄3年(1690)に幕府が湯島聖堂を創建した。


 尾張藩ではそれより早く、遅くとも寛永6年(1629)以前に名古屋城二の丸庭園内に初代藩主義直により建立されていた。『金城温古録』には、「其堂形八角、内には金像の五聖七十二賢を御安置にて、先聖殿と御染筆の御額も掲れるよし」と誌されている。
 この聖堂が『名古屋府城志』によると享保9年(1724)7月に法蔵寺に下げ渡され、10年3月に移設している。

 その後、二の丸にはしばらくの間聖堂はなかったが、寛保3年(1743)に「方三尺(90㎝角)ばかり銅瓦葺、双扉、高階神祠に類す」と誌される小規模な物が再建されている。この聖堂も祭祀は中絶し、扉は閉ざされたまま長い年月が経過した。文政6年(1823)になり、藩校である明倫堂の督学が中を調査し、藩士に拝礼させるため明倫堂へ移転することを建議して移設された。

 儒学は江戸時代の根幹をなした学問だが、尾張藩では聖堂を下賜したり、永年放置されたり意外な扱いである。

 

『尾張名所図会』

『尾張名陽図会』
  



広井天王みたらし
 法蔵寺の南東、堀川対岸に鎮座する洲崎神社は、名古屋の町が出来る以前はこのあたりまで境内が広がっていた。

 『名古屋府城志』には次のように書かれている。
 「境内元今の水主町に至れり、今水主町八角堂の入口に所在の清水は、即当社の御手洗の神水也、其辺椋榎樫松の林なりし故、椋の森と云ひし由」
 水主町まで続いていた洲崎神社の広い境内が、堀川の開削によって分断され縮小されてしまった。

 洲崎神社の由来書きによると「慶長十五年(1610)、堀川堀割りの御普請惣奉行羽柴正則御普請成就を祈願」とある。
 堀川開削にあたり、羽柴(福島)正則がこの神社に工事の成功を祈願したのだ。
 神の加護が有ったのか、堀川は無事竣工した。だが堀川により洲崎神社の境内地は大きく削られてしまった。かつては水主町(現:名駅南二丁目)の八角堂前に湧き出す清水が神社の御手洗だったが、堀川で分断されてしまったのだ。


   残念に思った神主が、享保9年(1724)に石碑を建立し、今は八角堂の境内に「廣井天王みたらし」と刻まれ立っている。




 2021/12/17