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これをみて堀川沿岸で機械製材を始める者が増えていった。42年(1909)になると愛知県製材組合(組合員20人)も設立されている。
製材業が大きく発展したきっかけは、大正3年(1914)に始まった第一次世界大戦である。景気による盛衰はあったが、昭和になり更に発展した。
大正9年(1920)には94工場で1,303人の職工が働き497台の機械鋸が稼働していたが、昭和12年(1937)になると217工場で3,416人の職工と1,323台の機械で製材を行うようになっている。
昭和12年(1923)刊行の『大正昭和名古屋市史』には、水主町から瓶屋橋まで製材・製函工場が密集し、堀川両岸には材木が係留されて船の通航も十分でないと書かれている。
◇堀川沿線は製材工業地帯
昭和50年代(1975~)まで、堀川沿川は製材工業地帯であった。堀川岸にはびっしりと筏が係留され、川岸に設置されたクレーンで太い丸太を引き上げ、トロッコで道路を挟んで反対側にある工場へ運び込んで製材していた。川沿いの道路には、至る所に丸太を運ぶためのトロッコレールが道路を横断して敷設されていた。このため川沿いの道を走っている車が丸太の運搬に遭遇し、人力で押しているトロッコが道路を渡りきるまで何台もの車が待っている光景もよく見られた。
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