尾張四観音
龍 泉 寺

 守山区の庄内川岸にある松洞山大行院龍泉寺は、天台宗山門派の寺で尾張四観音の一つとして知られている古刹である。
 永い歴史に裏打ちされた魅力的なスポットがたくさんあり、一度は訪問したい寺である。

    伝教大師が創建   弘法大師も龍神に出会う   その後の変遷
    魅力あふれる境内   賑わう龍泉寺  



伝教大師が創建
 延暦年中〔782~806、寺の由来書では延暦14年(795)〕に、伝教大師(最澄、767~822)がこの地方に来て、熱田神宮に参籠し修法(加持祈祷)していた。

 ある夜、童女が来て「ここから東北の地に龍泉があり、私はそこに住んでいる。師(最澄)の法恩で悟りの境地に入りたい」と言って姿を消した。
 最澄が童女の言った地に来てみると、山の南西に池があり波が立って龍女が現れた。「さっそく訪問していただき感謝に堪えない。私を永い年月の苦しみから救ってほしい」と言うので、法華経の素晴らしい教えを話した。龍女は喜んで「これから干ばつがあるときは、必ず雨を降らして人々を救おう」と言って池に姿を消した。そして池から金色の馬頭観音像が出てきて、ほとりに立つシイの木の梢に飛び掛かった。

 最澄は喜んで茅堂(萱葺の粗末なお堂)を建てて安置した。
 それから程なく龍神の威力により本堂が造立され、そこに馬頭観音像をまつり龍泉寺と名付けた。本尊の馬頭観音は青銅製で現在は秘仏になっている。

 なお、『沙石集』では「龍王が一夜で寺を建立したが、夜が明けてしまったので堀は掘りかけたままになっている」と書かれている。『尾張名所図会』に「秀吉公一夜堀跡」が記されているが、何らかの関連があるのだろうか。

◇違う伝承も
 『東春日井郡誌』(刊:大正12年)には馬頭観音が現れたことについて、別の伝承も収録している。
 同書が編纂される370~80年前(1543~53)に、熱田神宮の神官の息子 林弥之輔が下津尾村(庄内川を挟んで龍泉寺の対岸)に移住した頃は、龍泉寺の山には小さな祠があるだけだった。
 下津尾村の老婆が毎日龍泉寺の祠に燈明を上げていたが、ある日多羅々伽(たららが)池から馬頭観音像が現れたので、山上の祠に祀った。
 その後、龍泉寺周辺に人家が増えお堂を寄進することになった。建てているといつの間にか瓦が葺かれているので、人々は不思議に思った。下津尾村の神官が夜が明け始める頃に龍泉寺山に登ったところ、乙女が瓦を葺いている最中であった。乙女は神官に気がつくと驚いて龍の姿に変わり、空を飛んで入鹿池の方へ行ってしまった。これは多羅々伽池の龍神が乙女に化身していたものだ。



弘法大師も龍神に出会う
 その後、弘法大師(空海、774~835)が熱田に来て神宮寺(明治初期の神仏分離で廃寺)で100日の修法(『張州年中行事鈔』では千日参り)をしていた。

 毎日、一人の子どもが樒(しきみ,仏事で使う植物)と閼伽の水(仏前に供える水)を奉納するので、不思議に思い後を付けていったところ、龍泉寺麓の多羅々伽(たららが)池に入っていったので龍神と分かった。
 それから龍泉寺に10度参詣して馬頭観音を供養し、結願(けちがん)の日に熱田に有った榊の枝を持ってきてお堂の南に植えた。また、神宮の八剣のうち三剣を龍泉寺の山中に埋め、熱田神宮の奥の院にしたとされている。
 この榊は、江戸時代末期に書かれた『尾張名所図会』には「かれ失せて、その跡のみ残れり」と記され、すでに枯れていたようである。

 本堂に置かれている説明書きに「拝礼し、柏手を打ってお参りください」と書かれ、寺院だが神社のような参拝方法である。神仏混淆の時代からの名残か、あるいは熱田神宮の奥の院という事からなのだろうか。



その後の変遷
 天正12年(1584)の小牧長久手の戦いで秀吉方が陣を張った時に、火災が起き、本堂などが焼けて古い記録などが失われた。その後、慶長3~12年(1598~1607)に秀純和尚が多宝塔・本堂・仁王門を再建して再び賑わうようになった。

 元和7年(1621)には尾張藩初代藩主義直が参詣し、多羅々池新田39石3斗を寺領として寄進している。

 明治39年(1906)には火災により多宝塔と仁王門以外はすべて焼けてしまった。この時、慶長小判100枚が出てきたので、これと信者の寄進により明治44年(1911)に再建した。


江戸時代の様子  『尾張名所図会』


江戸時代の様子   『尾張年中行事絵抄』



魅力あふれる境内

仁王門
 
本 堂
 
多宝塔
 慶長12年(1607)の建築で、重要文化財に指定されている。入母屋造りこけら葺きで、幅が7.4m、奥行きが4.6m。
 伝承では高針村にあったものを慶長12年にここへ移築したとのことである。

 明治44年(1911)に再建されたもの。

 小牧長久手の戦い(1584)で焼失後、慶長年間(1596~1615)に再建されたもの。阿弥陀如来が安置されている。
 位置は『尾張名所図会』などには本堂の右手、『尾張名所団扇絵』では左手にあり、現在は左に建っている。移転の時期は不明(寺のホームページでは江戸後期以降)。


鐘 楼
 
浅野祥雲作の像
 八十八ヶ所霊場・御花弘法
 明治40年(1907)に再建したもの。
 鐘は太平洋戦争の金属供出で失われ、現在のは昭和34年(1959)に再鋳されたもの。

 多宝塔の近くに立像が2体並んで建っている。どちらもコンクリート像の第一人者である浅野祥雲の作である。
 左側は「水野房次郎氏寿像」で、昭和16年(1941)6月に名古屋馬匹畜産組合が建立した。
 右側は「篠田銀次郎氏之寿像」である。篠田氏が名古屋牛馬畜産組合や名古屋小運搬協同組合のリーダーとして活躍された功績をたたえ、昭和37年(1962)10月に名古屋小運搬協同組合が建立したものである。なお、昔の小運搬は馬車での輸送であった。


 八十八ヶ所霊場は竜泉寺一帯に設けられたミニ四国八十八か所巡り。
 大正5~6年(1916~7)に木村義豊氏とその娘が整備。八十八番目の札所は伊藤萬蔵の寄進による。
 その後、荒廃していたのを戦後になって寺周辺の4か所に集めたが、一部は滅失しているとのことである。

龍泉寺城

地蔵菩薩立像
(龍泉寺城内で展示)

円空仏
(龍泉寺城内で展示)
 本堂右手奥にあり、昭和39年(1964)に建築された宝物館。
 本来の龍泉寺城は弘治2年(1556)に織田信長の弟である信行により築かれたと言われるが、位置は不明である。

 重要文化財に指定されている、高さ68㎝の彩色像である。
 背面には「嘉元元年卯歳 長母大円無住刻作」と刻銘されている。1303年に長母寺の無住国師が作ったということである。
 しかし、無住が大円国師を諡号されたのは、は1312年に亡くなったずっと後の1546年なので、この刻銘には疑問があるとする説もある。

 円空は寛永9年(1632)に現在の羽島市で生まれ(異説あり)、元禄8年(1695)に関市の弥勒寺で亡くなった僧である。
 仏像を作りながら廻国し、荒削りで独特な作風の仏像を各地に残した。北は北海道、南は三重県まで5,000点以上の作品が残されているが、愛知・岐阜県は特に多い。
 龍泉寺には高さ112㎝の馬頭観音像、脇侍の高さ102㎝の熱田大明神像・天照皇太神像、高さ3.5~6㎝の千体仏が約500体あり、延宝4年(1676)春に造仏されたと言われている。


竜神井戸(多羅々伽池跡)

大泉龍王の祠

椎ヵ洞観音?
 多羅々伽(たららが)池
 本尊の馬頭観音が現れた池である。「多良〃(たらら)ガ池」と表記されることもある。『尾張名所図会』は「たらら」の名は理解しがたい。「たたら」を誤り伝えたのではないかと書いている。なお、寺の由来書では「多々羅(たたら)ヶ池」になっている。
 『東春日井郡誌』(刊:大正12年)には
 「本堂のうしろの山下にありしが、今に廃れて河流のうちとなる」とあり、庄内川に飲み込まれてなくなったと書いてある。
 一方、別のページには「其の池、今尚存して多羅々伽池と稱す、無住国師の沙石集、張州府志、尾張名所圖會等に詳かなり、池の面積は三百有餘坪あり。」と書かれている。
 しかし、『尾張名所図会』には「多良〃ガ池アト」と書かれており、江戸時代末期には姿を消していたようである。
 現在は、寺の西斜面に広がる墓地の一角にある竜神井戸が、かつての多羅々伽池の名残を伝えており、近くには大泉龍王を祀る祠がある。

 池から現れた馬頭観音が飛び掛かったという椎の木は、『尾張名所図会』によると、中世に枯れて残っていたが、天和年間(1681~4)の暴風で倒れ姿を消したとのことである。なお、同書の絵には、「多良〃ガ池アト」の近くに「椎ヵ洞観音」の文字が見られる。本尊の馬頭観音が池から現れて飛びついたという椎の木が生えていた近くに祀られたのであろう。
 現在、大泉龍王の祠近くに丸太をくりぬいた祠がある。表示はないが、これが椎ヵ洞観音のようである。



賑わう龍泉寺
   ◇初観音
 1月18日に行われ、『尾張年中行事絵抄』には次のように書かれている
 「此日初観音とて、老若男女の群参夥しき繁昌也。又、近郷よりかざり馬を引て、馬を参らするとて、各善美をなして来る事多かる。又、境内にて春駒を商ふ干店数多出たり。参詣の人々、これをもとめざるはなし。熱田の藤だんご、津嶋のあかたの如く心得たるにや。是も、馬頭観世音より思ひ付たる事成へし。」
 たくさんの人が参拝に訪れるとともに、馬之塔も出た。境内には「春駒」を売る露店がたくさん出て、人々が買い求めた。春駒は本尊が馬頭観音から思いついたことだろうと推測している。

 春駒は張り子で作った馬の頭を棒の先に付けたもので、『尾張名所団扇絵』の「龍泉寺節分詣」の絵にもこれを求めて帰る人の姿が描かれ、現在もこの寺の授与品に春駒がある。

 なお、現在の龍泉寺年中行事に、初観音は挙げられていない。


春駒
『尾張名所団扇絵』の部分拡大
◇節 分
 現在も各地の寺や家庭で行われている行事だ。
 尾張四観音(しかんのん)といって、名古屋城を中心に四方にある古くから観音を祀る4か寺が有名である。 そのなかでも、名古屋城から見てその年の恵方に当たる寺はとりわけ多くの参拝者が集まる。恵方は笠寺観音(笠覆寺)・龍泉寺・荒子観音寺・笠寺観音・甚目寺の順に5年で1回りする。

 『尾張名所団扇絵』などに、龍泉寺の節分風景が描かれている。


龍泉寺節分詣 『尾張名所団扇絵』



龍泉寺恵方参 『名陽見聞図会』


   ◇馬之塔(おまんと)
 この地方特有の神事に馬之塔がある。馬を連れて神社や寺に参拝するのだ。
 馬は標具(だし)と呼ぶ趣向を凝らした豪華な飾りを背に乗せていることが多く、これは本馬と呼ばれた。時には薦(こも)を巻いただけの俄(にわか)馬が奉納されることもある。
 祭礼や雨乞いなどの時に奉納されたが、尾張四観音と大須観音では毎年5月18日に奉納される習慣だった。

 龍泉寺にもたくさんの馬之塔が献じられた。
 『尾張年中行事絵抄』にその様子が次のように書かれている。

 近隣の村はもちろん、遠方では篠木庄(現:春日井市・小牧市の一部)からも来た。瀬古村の馬之塔は飾りが大きく「大ばれん」と呼ばれ有名だった。
 篠木33ヶ村からの馬之塔は、馬数も人数も多いことで有名だ。密蔵院(現:春日井駅東、吉根橋北)に集合し、その南で庄内川を渡った。ここは川幅が広くなっているところだ。渡るところでは、多くの人が川に入って馬を囃したてて渡らせた。まるで地上で踊っているような様子だ。馬之塔のかざりは華麗で川の水を彩り見事なもので、この様子は他に類がなく壮観である。
 
龍泉寺馬之塔会 篠木川馬渡之図真
『尾張年中行事絵抄』

 なお『守山市史』には「龍泉寺参詣のため、縁日には対岸の下津から裏坂への渡しがあり、善男善女の往来で賑わっている。」と書かれている。

◇風光明媚な場所
 庄内川に面する高台に建つ龍泉寺は、風光明媚な場所として親しまれていた。

 『尾張年中行事絵抄』には次のように書かれている。
 「此寺の後は、山のきりきしにして、西北の眺望、いふばかりなし。西には金鱗の光あざやかに見へわたされ、北に遠くは信濃三の数山、近くは白帝城及び尾北の山々里郷も、ことことく眼下につらなり、勝川の流水は、紺青をそゝぎたるに似て、河原の真砂路は、白粉をしくかとうたがわる。寸馬、豆人の往来ふさま、実に濃(こまや)かなる美景なりける。……中略……此山は清水寺の舞台より とんだ興ある春げしきかな」

 また『尾張名所図会』には次の記載がある。
 「當山は勝川の流に傍ひたる山岸にて、書院及び本堂の後なる裏山より、西北の眺望いふばかりなく、西に金鱗の光あざやかにして、小牧山・尾張不二・本宮山はさらなり、尾北をはじめ、近國の連山波濤をなし、近くは勝川の緑水清冷にして、広野の平遠なる篠木の村落、平面に石を下せるが如く、寸馬豆人の往來ふさまゝで、風光他に増りて、實に城東第一の絶景、雅俗帰路を忘るゝの勝地なり。しかのみならす、此山は龍の御山とて和歌の名所なり。」

 現在も鐘楼から北を見ると、昔のような自然豊かな風景ではないものの、庄内川を挟んで広大な景色が楽しめる景勝地である。

 
龍泉寺裏坂の眺望 『尾張名所図会』


『絵葉書』 「松ヶ丘の絶勝西の方 庄内川を望む」
時期不明(昭和戦前?) 中央上の橋は松川橋?






 2024/12/20