鎌倉時代に創建
石 山 寺
 矢田川の北、かつての下街道(善光寺街道)近くにあるのが石山寺である。鎌倉時代に創建され、戦国時代には衰退したものの尾張藩主が再建し、広く落ち着いた境内は歩んできた永い歴史を今に伝えている。

    永い歴史と由緒 石山寺   馬頭観音・重軽石   石山寺への道標
    御嶽教・霊神碑    



永い歴史と由緒 石山寺
 西天山石山寺は天台宗の寺で、創建は寛元年間(1243~7)の古刹である。

◇なぜ「石山寺」?
 滋賀県にある石山寺と同じ名だが、それはこんないきさつからである。
 1200年代、奈良に叡尊という僧がいた。戒律が乱れた当時の仏教界の是正に努め、荒廃していた西大寺を復興した僧である。その功績などにより没後に天皇から興正菩薩の称号を贈られた。
 興正菩薩は如意輪観音像を彫り滋賀県の石山寺へ安置したが、余った材料で十一面観音像を彫り、その像を弟子である道円に渡した。道円はその像を持ってこの地へ来て安置した。滋賀の石山寺と同じ木で造られた像なので、寺の名も同じ石山寺にしたという。なお、この観音像は境内に入って左手に建つ観音堂に安置されている。

◇戦国時代に荒廃、徳川家光が再建
 その後興隆して、石山寺・無量寺・福田寺・光蔵寺・光善寺の5院が有ったが、戦国時代になると荒廃してしまった。江戸時代になり、延宝3年(1675)に2代藩主光友が石山寺を再建したという。
 その後、明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊して翌年再建している。また、太平洋戦争の空襲で観音堂と山門以外を焼失している。

◇恵心僧都作の仏像
 薬師如来座像・阿弥陀如来座像・釈迦如来座像の3体が安置されているが、いずれも1000年前後に活躍し『往生要集』などを著し浄土信仰を広めた恵心僧都(えしんぞうず)の作と伝えられている。

◇観音の開帳で賑わう
 『金明録』(猿猴庵日記)には、この寺で時々観音の開帳を行ったことが書かれている。
 天明2年(1782)には2月15日から4月5日まで開帳があり、「千仏掛物・古物出る。芝居・茶屋抔有、繁昌す」と書かれ、賑わったようである。















馬頭観音・重軽石
 山門をくぐり境内に入ると、よく手入れされた庭が広がり、塀に沿って多くの石仏が並び、安らぎのなか凛とした雰囲気が漂う。
 山門のすぐ西に3体の石像がある。中央の馬頭観音は、民間信仰では馬の守り神とされ、運搬に馬を使うことが多かった街道筋に建てられることが多い。この観音もかつては下街道の勝川橋南詰に立っていたのを明治初期に移したものだという。

 その右は重軽地蔵だ。願い事を念じて地蔵を持ち上げ、軽く感じる時はその願いが叶い重い時には叶わないという。
 大阪四天王寺や高知の観音寺など各地に有るが、名古屋とその周辺には大須観音・笠寺観音を始めあちこちに重軽地蔵・重軽石がある。尾張での密度が高いので、この地方から全国に広まったのではないかともいわれている。


石山寺への道標
 寺の北東、駐車場の一隅に石柱が建っている。風雪に削られて読みづらいが、「右 石山寺道」「寛政七卯五月吉日」と彫られている。
 1795年に下街道際に建立され、右へ行くと石山寺と案内しているので、下街道を北から名古屋方面に来た人を対象に案内した道標である。村絵図を見ると、八ヶ村悪水(現:古川)南岸に天王社があり、そこから石山寺への道が延びているので、そこに建てられていたと考えられる。




御嶽教・霊神碑
 山門の右手には築山がある。御嶽教のものだ。
 江戸を始めとする富士山の見える所では富士教が普及し、各地に富士塚を築き信仰のよりどころとした。 名古屋から見える霊山は御嶽山だ。天明5年(1785)、軽精進での登拝のみちをひらいた覚明行者が春日井の出身ということもあり、名古屋周辺には御嶽教が広く浸透している。現在もあちこちに教会があり、富士塚と同じように御嶽塚も残っている。

 塚は御嶽山をイメージしたものだ。一番高いところに祠があり、祀ってあるのは御嶽大神といわれる国常立尊(くにのとこたちのみこと、生命の根源神)、己貴命(おおむなちのみこと、福徳の神、少彦名命(すくなひこなのみこと、智徳の神)だ。
 その前にお不動様が立って守っており、ゆかりの行者や霊神の碑が建っている。本来は神仏習合の修験道だが、明治元年(1868)の神仏分離令でほとんどの御嶽講は神道系になった。ここの御嶽塚は一応石山寺の境内とは分けられているが同一区画にあり、仏教と密接な関係があった江戸時代の名残をよく残している。


 下街道は御嶽教信者にとり神聖な聖地巡礼である御嶽登拝の道筋だ。ここに立ち寄り登拝の無事を祈った人も多かったのではないだろうか。




 2025/02/16