大型船が入れない 熱田港
       
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       熱田は東海道七里の渡しがある交通の要衝であったが、遠浅の海で至る所に葦生があり、廻船など大型船の入港ができない港であった。 
       このため、廻船などは沖合で水深が深い保田沖(ぼたおき)に停泊し、貨物を小型船に積み替えて熱田で陸揚げしたり堀川を遡って名古屋へ運んでいた。 
       
      「干潮の際には一葉の扁舟(平たい小舟)だに進退自由を得ない」と言われる状態であった。 
       
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      『熱田三ヶ浦町並之図』 
      天明4年(1784) | 
    
    
        
      『木曽式伐木運搬図会』 
       
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       ◇三菱商会 熱田航路を断念 四日市港へ……明治6年(1873) 
       明治6年(1873)になると、政商岩崎彌太郎が率いる三菱商会が、名古屋と東京・横浜を結ぶ定期航路を開設しようとしたが、熱田では入港できないので8年(1875)に横浜と四日市を結ぶ航路を開設している。 
   
      ◇西南戦争勃発 郵便汽船三菱会社 熱田~四日市航路 開設……明治10年(1877) 
       そのようななか、西南戦争が始まった。明治10年(1877)2月15日、薩摩軍16,000人の兵が熊本へと向かった。一方、鹿児島の不穏な情勢を把握していた新政府は、その3日前の11日に名古屋鎮台にも出兵を命令していた(19日出発との説もある)。 
       兵員や軍需物資輸送のために、熱田から四日市を結ぶ定期航路の開設が政府から郵便汽船三菱会社(三菱商会と日本国郵便汽船会社が合併)に命令された。同社は3月より浚渫をしながら100トン前後の汽船2隻での運航を始めた。 
       
       戦争は9月に終わったが、運航を維持するため、愛知県3,000円・三重県2,000円・駅逓局(現:日本郵政グループ)1,500円、合計6,500円の補助金を支給することで継続された。 
       しかし12年(1879)になり愛知県会で補助金支出が否決され10月に運航は廃止されてしまった。明治3年頃から熱田などの廻漕会社による四日市への航路があったが、この間11年(1878)頃に競争に敗れて廃止されている。 
   
      ◇黒川治愿による改修……明治10年(1877) 
       愛知県技師の黒川治愿は干満にかかわらず船が通航し接岸できるように、黒川の開削と同じ明治10年(1877)に熱田港の整備を行った。 
       航路部分の延長1,550間(2.8㎞)、幅12間(22m)を水深5尺(1.5m)に浚渫し、その土で明治新田(現:南区明治一)を造った。航路延長の2.8㎞を熱田から南へ伸ばすと、今の堀川防潮水門の近くにまで達する。当時、保田沖と呼ばれた比較的水深が深かったところから熱田の船着き場まで浚渫したものと思われる。 
       
       せっかく浚渫した航路が土砂に埋まらない工夫もしている。 
       東側は明治新田から南へ長さ1,500間(2.7㎞)、幅が6尺(1.8m)の木材を組んだなかに石などを詰めた続枠(つづきわく)を造っている。これは山崎川河口あたりまで達する長さだ。西側は、千歳村の南に、長さ300間(546m)、幅が22間(40m)のコの字型〔総延長622間(1.1㎞)〕の猿尾(さるお)堤を設けている。 
       
       熱田港には、長さ20間(36m)、上部の幅4間(7.3m)、3方に5段の石階段を設けた波止場を築き、小型船なら干満にかかわらず接岸できるようにした。 
       これにより、大型船は無理だが小型なら自由に接岸できる港になった。 
   
      ◇愛知県による航路の浚渫……明治13年(1877)~29年(1896) 
       県は、200トン前後の船が入港できることを目標にして、13年(1877)から29年(1896)まで毎年1,500〜3,000円の予算で熱田港から保田沖(現在の名古屋港付近)の区間で浚渫工事を続けた。 
       16年(1883)に名古屋区長(現:市長)の吉田禄在が県令(現:知事)に出した上申書には、「横浜と四日市との間は、其物貨僅かに一昼夜にして達すると雖、四日市よリ我名古屋へは、其早きは一週間、其遅きは十日乃至半月余の日数を経るにあらざれば到達せざるを常とす」とあり、小型船による中継輸送の問題が年々大きくなっていった。 
       
       県は浚渫を進めたが、なかなか大型船が入れるようにはならなかった。明治20年(1887)に100トン並びに甲板の最大長100尺(30m)以上の汽船の出入りを禁止している。100トンの船は和船の石数では千石船ということになり、江戸時代の熱田湊に比べれば大きく改善されてはいるが、船の大型化はそれ以上に進んでいた。 
       
      ◇民間で四日市などへの航路開設……明治13年(1877)~ 
       明治13年(1877)3月に、大阪の尼崎伊三郎が熱田〜四日市〜津〜神社(かみやしろ、現:伊勢市)を結ぶ航路を開設した。当初は1隻の汽船であったが、16年(1883)から翌年にかけて2隻の新船を投入している。 
       
       この盛況を見て、17年(1884)5月に名古屋・熱田財界の主な人々により資本金50,000円で東海汽船会社がつくられ、熱田〜四日市〜神社への船が運航されるようになった。 
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       同年6月には資本金16,000円で熱田聯合汽船共同会社も設立され、汽船2隻で熱田〜四日市間の定期輸送を始めた。さらにこの年には、四日市にも熱田〜四日市〜神社の定期航路を開設する会社が設立され競争が激化していった。 
       
       翌18年(1885)3月になると、共倒れを懸念した愛知県令(現:知事)の斡旋により、尼崎が行っていた事業を東海汽船会社が吸収したものの、10月には、日本郵船会社(郵便汽船三菱会社と三井系の共同運輸会社が合併)による運航が始まっている。 
       20年(1887)には四日市に勢尾汽船会社ができて同じ航路で運航を始め、東海汽船会社は8月に4隻の汽船を就航させて対抗し、激しい値引き競争になった。ついに21年(1888)5月、東海汽船・勢尾汽船・熱田聯合汽船の合併により、熱田に共立汽船会社がつくられた。11隻の汽船で、四日市航路のほか、神戸や長崎への航路も運航したが28年(1895)に大阪商船会社に買収されている。 
   
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      『尾陽商工便覧』 明治21年 
       上に「上社 津 四日市 桑名 其外近港エ日々汽船出航ス」と記載 
       
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      ◇統計にも載らなくなった熱田港……明治18年(1885) 
       浚渫を進めても「二〜三百トンの船舶を入れるのに尚困難」であり、大型船は四日市港に入り、貨物は小型船や艀に積み替えて、熱田や堀川へ運ばれた。 
       
       明治17年(1884)から20年(1887)の『農商務統計表』に、港湾出入船舶数が記録されている。 
       17年(1884)版の尾張地方では熱田・半田・亀崎港が掲載され、熱田港には汽船の出入は全くなく、帆船と日本形船だけである。入出港合わせて6,394隻で積荷価格は51万円余となっている。この年の四日市港は、汽船だけでも842隻の入出港があり、全種類では7,627隻の船が出入りし、積荷価格は1,083万円余で熱田港の21倍である。 
       翌18年(1885)版からは熱田港の記載はなくなり半田・亀崎港だけになっている。熱田港は統計からも除外される港であった。 
       
      ◇港の体をなしていない熱田港 
       明治36年(1903)刊行の『名古屋案内』は、築港以前の熱田港の様子を次のように書いている。 
       「世に名古屋の海門を以て目せらるゝ熱田港は、從來遠浅にして船舶を容るゝに足らざるを以て、入港船は常に熱田町地先なる海岸を距る約一里の處、保田沖と称する邊に碇繋せりと雖ども、一として港湾の設備あるなく、南東僅かに知多半島の自然の障壁を以て波濤の襲來を免るゝも、南西の方は一の防波堤をも有せざるが故に、 常に風波の厄に遭ふこと多く、且つ庄内川の流砂は、絶へず此海に沈滞して、漸次水深を減ずるに至りしかば、小形の船舶も猶ほ深く保田沖以北の海に入るを得ず、 
       爲めに積量の巨大なる船艦の如きは、皆な三重縣四日市港に寄泊し、名古屋地方に陸揚げすぺき貨物は、艀船其他の方法により、更に同地より輸送せらるるを以て、其不便なること少なからざるは勿論、爲めに名古屋の商工業に損失を蒙らしむる、頗る多大なるものある。」 
       
       また『名古屋港史』には次のように書かれている。 
      「築港当時、この堤防(作良新田と熱田前新田の堤防)から一〇〇mの間は葦が密生した広漠とした干潟で、その先五〇mが潮干狩に好適な浅海となっていた。その前面が水深五mほどの保田沖で、小型汽船が停泊できるところであった。」 
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