中川運河に2つある運河神社の下宮が金比羅大権言社だ。運河ができて間もない頃に創建され、境内には運河開削で立ち退きになった神社の石造物がある。 |
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運河神社は中川区の上の宮〔金刀比羅社(西宮神社)〕とここ港区の下の宮の2社がある。この下の宮は昭和橋から中川橋の区間が氏子になっている。権現は通常「権現」と書くが、この神社の入口に建つ標柱は「権言」と彫られており珍しい。 創建は『港区誌』によると昭和9年(1934)である。5年(1930)に中川運河ができ徐々に人家が建ち始めて町の発展と無事を祈願して建てたとの事だ。 座談会で古老が次のように語っている。 「運河神社は、幡豆郡の宮崎の人達で人盡(じんし)会という会があって、その会の方と町の役員の方が協力して造ったものです。当時、千ぐらいの艀があって、その中でも宮崎の人が多かった。この人たちが、管理組合の援助を受けて、運河建設のため立退きになった神社の鳥居、手洗石などを集めて運河神社を造りました。……中略……伊勢湾台風で社殿がなくなって仮社でしたが、昭和四十六年(1971)中川本町で現在の社殿を造りました。まつってあるのは金比羅宮で現在は毎年八月一日に盆踊りを主体に、お祭りをしています。」 「幡豆郡の宮崎」は現在の西尾市吉良町宮崎の事だ。入り口の石鳥居には「明治四十五年」(1912)と刻まれ、その脇にある手水鉢には「明治十五年」(1882)と彫られている。運河神社が建設された年より古い年号があるのは「立ち退きになった神社の鳥居、手洗石などを集めて」といういきさつからである。 『大手』〔大手小学校五十周年記念誌、昭和61年(1986)〕には 「運河祭は、昭和四十六年(1971)の頃が一番にぎやかであった。運河神社の氏子の奉賛会の人々は、三味線や太鼓を鳴らしながら屋台を引いた。婦人会の人たちが、それに合わせて町内を手踊りで歩いた。また、子供相撲も盛んであった。子供のかつぐ船の形の神輿には、怪獣や人気漫画の主人公を乗せた手作りのものもあった。」「戦前は運河事務所も祭に協力していたが、戦後は政教分離で役所の援助がなくなり、氏子は祭の維持に苦労している」 と書かれている。 |
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本 殿 |
明治15年の手水鉢 |
明治45年の鳥居 |
2023/11/03 |
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