映画撮影所もあった
道徳公園
 今も広大な道徳公園だが、昔ははるかに広く映画の撮影所も園内にあった。
 現在は広い池やコンクリートのクジラ像など、他の公園にはない魅力的な施設があり、人々の憩いの場所になっている。


    道徳公園             映画撮影所(マキノ中部撮影所)



道 徳 公 園
◇広大な敷地だった 道徳公園

 道徳公園は豊田土地区画整理組合が大正末期(~1926)に整備した公園で、その後名古屋市へ寄付され昭和16年(1941)に再整備されている。

 かつては非常に広大で、面積が25,600坪(8.25㏊)あり、今の道徳小学校や大江中学校の南、道徳通までが公園であった。
 園内の10,000坪(3.3㏊)は映画の撮影所、5,000坪(1.65㏊)が黎明池、残りの地に野球場・テニスコート・クジラ池・遊園地が設けられていた。




昭和12年 『名古屋市街全図』




現在 『スーパーマップル』
◇鷲尾善吉の頌徳(しょうとく)碑

 鷲尾善吉は塩田村(現:愛西市)の豪農で、文政4年(1821)に道徳前新田を開発した。
 昭和30年(1955)に建立された頌徳碑は、表に新田の歴史、裏面に最初に入植した42名と碑の建立に協力した人の名が刻まれている。

碑の右上にある「文政四年」の横に「紀元二四八一年」と彫られている。


 これは西暦では無く、神武天皇が即位した年を基準とする皇紀である。日本が戦争に邁進していた昭和15年(1940)は紀元2600年にあたるとして、皇威や国威を発揚するため大々的な行事等が行なわれたが、戦後はほとんど使われなくなった。昭和30年(1955)建立の碑に皇紀が書かれているのは珍しい。

◇クジラ池

 今もあるコンクリート製のクジラは、噴水が噴き出し昔は子ども向けのプールになっていた。長さ36尺(10.8m)のクジラ像は昭和2年(1927)に後藤鍬五郎が造った。この像は登録有形文化財と名古屋市の認定地域建造物資産になっている。

※後藤鍬五郎とは?
 鍬五郎は明治25年(1892)生まれで、39年(1906)に矢場町山田工芸所(山田光吉、塗装業)へ入社。大正9年(1920)に独立して東築地で看板屋を営んでいた。その頃にクジラ像を手がけ、親方の山田光吉と共に現在の東海市で聚楽園大仏と仁王像をつくっている。また、今はないが道徳観音山の楊柳観音像、長浦海水浴場(現:知多市)の大ダコなど多くのコンクリート像を建立した。





映画撮影所(マキノ中部撮影所)
 園内には映画の撮影所もあった。
 「日本映画の父」と呼ばれている牧野省三は、明治41年(1908)から映画の製作を始め、日活などで200本以上の映画をつくった。
 大正10年(1921)に独立して牧野教育映画製作所を設立、12年(1923)にマキノ映画製作所に改組して娯楽映画を製作するようになり、一旦は東亜キネマに吸収されたが14年(1925)にマキノ・プロダクションを設立している。

 そのようななか、大作「忠臣蔵」をつくろうとしたが京都の撮影所が手狭になっていた。
 一方、名古屋の大須で文明館と港座、高岳で日本館という3つの映画館を経営していた竹本武夫は、道徳に映画撮影所を造ろうとして土地を入手していた。武夫の息子と省三の娘が結婚しており親戚関係であったことから、道徳にマキノ中部撮影所を造ることになり、所長は竹本武夫が就任した。



『名古屋市全図』 昭和8年
撮影所は昭和5年頃になくなったが
地図は未補正
 昭和2年(1927)1月17日に起工式が行われ、5月には松の廊下のセットが完成し、6月6日から撮影が始まった。この日は撮影風景を一般の人に見物させたので、5,000人もの人が集まった。引き続き忠臣蔵の撮影が進められ、並行して何本もの映画がここで撮影された。
 3年(1928)3月5日、省三が京都の自宅で撮影された忠臣蔵の編集中にフィルムへ引火し一部の映像は失われてしまったが、残されたフィルムで編集して「実録忠臣蔵」のタイトルで14日に公開された。

 そして25日にマキノ中部撮影所は閉鎖された。その理由は4月25日の『名古屋新聞』によると、非効率な仕事ぶりで人件費・撮影費が膨張し、所長の竹本武夫が激怒して従業員を皆京都へ追い返し閉鎖したとのことである。
 短い期間だったが、ここで6本(10本以上とも)の映画が撮影されている。
 なお、牧野省三はマキノ中部撮影所を閉鎖した翌4年(1929)7月に、50才で亡くなっている。

 その後は小沢得二監督が東海撮影所として12月末まで使用し、施設は昭和5年(1930)頃に無くなったという。

◇山神社境内に遺物
 道徳小学校南に鎮座する山神社の境内に光徳稲荷が祀られている。本殿前の灯籠を見ると、右側面に「昭和二年十月建立」、裏面に「文明館職員一同」と刻まれている。

 山神社が道徳へ遷座した年より3年前の年号が刻まれているのは、元はこのあたりから北にかけてあった映画撮影所の構内に鎮座(現在の道徳小学校校庭あたり)していた稲荷が遷座されたからである。
 撮影所は昭和2年(1927)1月に起工式を行い6月から撮影が始まっているが、その年の10月にこの灯籠が奉納されている。奉納者が文明館職員一同なのは、撮影所を開設し所長をしていたのは大須で文明館と港座、高岳で日本館という映画館を経営していた竹本武夫なので、その縁からである。






 2023/09/01