名古屋三天神の一つ
山田天満宮

 山田天満宮は名古屋三天神の一つだ。毎年受験シーズンになると合格祈願に多くの人が訪れる。境内には縁起の良い名の金(こがね)神社が鎮座し、真剣にお金を洗っている人がいる。境内の端には地域を分断していた中央線の土盛りの一部を高架橋にした記念碑も建っている。

    山田天満宮   祭神 菅原道真とは?   お金を洗う 金神社
    「鉄道橋記念」碑    



山田天満宮
 受験シーズンともなると合格祈願の受験生の姿が狭い境内の中に多くみられる。受験生が合否を占って引いたのであろうか、おみくじが何本も紐に結ばれ、奉納の絵馬がぎっしりと架けられている。
   「東風吹かば匂おこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
 配流の地・太宰府で、都をしのんで詠んだ菅原道真の歌にちなんで、境内には梅の古木がたくさんの花を付け華やかな雰囲気だ。祈願した受験生たちの夢もきっと花開いていることであろう。

◇1672年の建立……名古屋三天神の一つ
 上野天満宮(現:千種区赤坂町)、桜天神社(現:中区錦二)、山田天満宮を名古屋三天神と呼んでいる。
 上野天満宮は平安時代中期に陰陽師の安倍晴明の一族が創建したと言われ、桜天神社は、信長の父である織田信秀が天文年間(1532~55)に北野天満宮から勧請して建立したものだ。
 山田天満宮は、2代藩主光友が寛文12年(1672)に建立した。尾張藩の学問祈願所として、江戸時代も現代も変わらず、学問成就を祈る人々でにぎわっている。
 『寛文村々覚書』は、創建以前の編纂なので天満宮の記載はなく、山田村で記載されている神社は「大神宮」だけで祭神名は書かれていない。江戸時代後期に編纂された『尾張徇行記』の山田村の項には神社の記載は全くないので、かつての神社の様子は覗えない。



祭神 菅原道真とは?
 祭神は菅原道真の天神だ。今では天神というと道真のことと思われることが多いが、たくさんいる天神の一人が道真である。
 天神は「天神地祇」の天神で天津(あまつ)神のこと。地祇は国津(くにつ)神のことである。天津神は天照大御神など高天原にいる神で、大和政権の中枢にいた人々が信仰していた神だ。国津神は出雲国譲りの話が残る大国主神など在地の神のことである。

 学識豊かで右大臣までなった道真はざん言で太宰府に流され延喜3年(903)に死亡した。
 その後、朝廷の高官が相次いで亡くなったが、道真の怨霊によると考えられ、延喜23年(923)に道真を右大臣に戻した。しかし、延長8年(930)に清涼殿に落雷があり多くの死傷者が出た。これも道真の怨霊と考え、天暦元年(947)に北野天満宮に天神として祀られた。


お金を洗う 金神社
 山田天満宮の境内社として金(こがね)神社がまつられている。金神社はパンフレットによると、延享3年(1746)の創建で、祭神は「恵比寿神」「大国主神」「金山彦神」「岐神(ふなどのかみ)」。

 天満宮入口の説明板では、山田町四丁目にあった金神社(大将の宮)を昭和58年に合祀したとなっている。以前は広福寺の東隣にあり、江戸時代の村絵図では「大将軍(ママ)」と書かれているものだ。

 この神社では、お金を洗うことができるようになっている。お金を洗うと金銭に不自由をしないようになるとのことだ。真剣な表情で、ビニール袋に入れたお札にひしゃくで水をかけている人の姿が見られる。御利益は確かなようで「H19サマージャンボ2等1億円でました」と書いたひしゃくなどが奉納されている。
 お金を洗えば、金銭が何十倍にもなるという信仰で名高いのは、鎌倉の銭洗弁天だ。全国いたるところから銭洗弁天には、お金に縁があるようにと人々がおし寄せている。銭洗い弁天は正式な名称は銭洗宇賀福神社という。正嘉元年(1257)、北条時頼が「貨幣を洗えば清浄な福銭になる」といったところから、銭を洗う風習が起こった。銭を洗ったところ、思いもかけない大金を手にしたという噂が広まり、銭を洗うことが人々のあいだに定着していった。

 金神社という縁起のよい名前の神社であるからこそ、鎌倉の銭洗弁天と同じような風習が生まれたのであろうか。


昭和35年『北区全住宅案内図帳』



「鉄道橋記念」碑
境内の一隅には「鉄道橋記念」と題し次の文面を記した、昭和8年(1933)建立の碑がある。

  名古屋市城東耕地整理組合曩準據都市計画工事既成区画井
  然通路四通将来殷賑有可期待者矣只憾(うらむ)往時防水長堤所重要
  視省線中央線依然貫通地区内東端交通保全上最為障害阻止
  東部発展大地方役員夙(つとに)夜深憂不能措昭和六年歳□適当組合
  精算期議新設架道橋二箇于山田町地内有所請願名古屋鉄道
  局長一面上京数次陳情鉄道省奔走大力翌年遂奏功以工費壱
  万六千円負担為條件得之聴許於是一則昭和七年六月起工同
  年八月竣工一則同年十二月起工翌年二月竣工矣依之所多年
  懸案事業告完成為組合最終絶好記念豈可堪慶福乎乃茲記□
  梗概併勒所鞅掌役員氏名于碑陰不朽云爾
    昭和八年歳在癸酉七月立
       尾張 耕南瀧村正彦撰文并書



 概略次の内容である。
 この地域の都市化に向けて城東耕地整理組合が道路などの整備を進めてきた。しかし施工区域の東には土盛りをした中央線が地域を分断しているので発展の障害となることが懸念されていた。組合が事業を終え精算の時期を迎えるにあたり、名古屋鉄道局長や鉄道省へ数回陳情をし、やっと地元が1万6千円負担すれば鉄道橋を架けることが聞き入れられた。昭和7年と8年に二つの鉄道橋が架けられ懸案が解決した。




 2025/06/20