御朱印で評判
別小江神社

 別小江神社は古くからの神社である。このため応神天皇の胞衣を奉安する神社や名古屋築城の時加藤清正が架けたという橋の石材、この地域で盛んだった御嶽教の社や霊神碑、安井村の発展に尽力した稲垣安忠の顕彰碑、今ではわずかしか残されていない道路元標などがある。
 一方、近年は華やかな飾りや、月替わりの御朱印、ペットの健康祈願などでも人気がある神社である。

    別小江神社   延喜(延奈)八幡社の由緒   御嶽神社
    稲垣安忠の碑   萩野村道路元標  



別小江神社
 別小江神社(わけおえじんじゃ)は、ずっと昔、千本杉と呼ばれた所に鎮座していた。天正12年(1584)織田信雄により、今の地に遷座した。

 創建の時期は不詳であるが、延喜式神名帳に「山田郡別小江神社」と記載されている式内社だ。
 祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、月読命(つきよみのみこと)、蛭子命(ひるこのみこと)の六柱で、旧社格は当初が村社で後に郷社になっている。

 境内社として、神功皇后とその子の誉田別尊(ほむたわけのみこと=応神天皇)を祀った延喜(延奈)八幡社・日神社・金刀比羅社・御嶽社・津島社が鎮座している。
 また、葉が三本ある三葉の松が御神木になっており、清正橋の石材も保存されている。

 数年前から月替わりの御朱印が評判になり、神社のホームページでは御朱印待ちの人数や待ち時間などがリアルタイムで表示される。又境内は華やかな傘や提灯で飾られ、他の神社とはずいぶん違った雰囲気を醸している。それに加えて、ペットブームを反映し「犬詣で」として、犬の七五三・健康祈願・病気平癒などの祈祷も行っている。




金刀比羅社・蛭子社


清正橋の石材

三葉の松



延喜(延奈)八幡社の由緒……故 澤井鈴一氏著述に見出しを付記

   神社に伝わる神功皇后の話は、今から1700年も昔のことだ。わかりやすく潤色して、そのいきさつを紹介しよう。

◇三韓征伐
 仲哀天皇は筑紫(現:福岡県)の香稚宮(かしいぐう)で熊曽国(九州南部)を征伐する準備をしていた。
 天皇は琴をかなで、建内宿祢は庭にひざまずき、神のお告げをうかがっている。神功皇后に、神様が乗りうつった。神がかりの状態で、皇后はお告げになる。
 「西の方に国がある。金銀をはじめとして目がくらむようなさまざまな珍しい宝物がその国にはある。私は今、その国をお前にさしあげようと思う」。天皇は、お告げを信ぜず「あなたはうそをつく神様だ」と言って、琴をひき続けていた。
 神様は、たいそう怒って天皇の命を奪ってしまった。
 人々は驚き、恐れ、神様にささげる品物を国中から集めた。身をきよめて、神様にたずねると「すべて、この国は、お前のお腹に宿っている子どもが統治なさる国だ」というお告げがあった。「生まれてくる子どもは男の子ですか、女の子ですか」とたずねると「男の子である」と答えられた。「お前たちが、海の向こうの国が欲しいと思うなら、すべての神に御幣をささげ、わたしの魂を船の上に祭り、桧の灰を瓢箪に入れ、また、箸(はし)、ひらで(柏の葉でつくった食器)を多くつくり、みな海の上に投げて渡っていくがよい」と言った。

 神功皇后は軍隊をととのえ船を浮かべて、海に乗り出すと、海中の魚は船を背負って海を渡った。追い風をうけた船は一気に進み、新羅(昔の朝鮮の国名)に着いた。新羅の国王は恐れ、つつしんで天皇に仕えることを誓った。

◇神功皇后の出産……尾張国造の稲種が補助し胞衣を持ち帰る
 神功皇后は、新羅の国に向かう時、ちょうど御産で臨月にあたっていた。皇后は尾張国造の稲種を呼び、二つの石を拾ってくるように命じた。皇后は一つの石を裳(女子が腰にまとった衣)に巻き、まじないをして出産の時期をのばされた。新羅を征伐し、日本に帰ってから、皇后は誉田別尊(ほむたわけのみこと)を産んだ。この方が後の第15代応神天皇だ。
 この時、稲種は産屋(お産をする小屋)でお仕えしていた。稲種は神胞(帝をつつんでいた膜)をいただいて尾張の国の安井の里に帰った(いい伝えでは、裳の中に入れられなかった石もいただいて帰り、御神体とした)。これを千本杉という所に奉安した。

◇延奈八幡社 創建
 天智天皇が即位してから7年目(667)に、神功皇后と誉田別尊をまつる延奈(えな)八幡社を建てた。
 今、延喜八幡社と呼んでいるのは、延奈八幡社をいいかえたものだ。

 神功皇后の伝説にちなみ別小江神社は、安産の神様として知られている。むかしは安井の里でできたわらを、お産の時、下に敷けば安産まちがいなしといわれていた。




御嶽神社
 本殿の右手に塚が築かれ御嶽神社があり、大きな覚明霊神の碑が建ち近くには役行者の石像が置かれている。

 御岳山に鎮座しているのは御嶽大神といわれる三柱だ。国常立尊(くにのとこたちのみこと…生命の根源神)、大己貴命(おおなむちのみこと…福徳の神、別名大国主命)、少彦名命(すくなひこなのみこと…智徳の神)である。


覚明霊神碑 左は金刀比羅宮
◇覚明 軽精進での御嶽登拝を開く
 御嶽山は古代より登拝されてきたが、百日の精進潔斎をした者にしか許されないという厳しい掟があった山である。これを改革して、今のように大衆でも登拝できるようにしたのが覚明行者である。
 覚明は享保4年(1719)に春日井郡牛山村(現:春日井市)で生まれた。幼時に土器野新田(現:清須市)の貧しい農家へ養子に出され、出家して清音寺(西区枇杷島三丁目)で修行し、明和3年(1766)、7回目の四国巡礼をしている途中に御岳開山の神託を受けて覚明と改名した。

 翌明和4年(1767)に恵那山を開山し、安永元年(1772)に御岳山ふもとの黒沢村に現れた。庄屋に開山への協力を依頼したが断られ、その後の10年間は登山道の整備や布教に努め協力者を増やしていった。天明2年(1782)には、御嶽神社の神宮に軽精進での登拝を願い出たが拒絶された。
 なんとしてでも神聖な御岳山の霊気に多くの人々をふれさせて救済をはかりたいと考えた覚明は、ついに天明5年(1785)6月8日、永年の掟を破り軽精進の信者8人を連れて登拝、続けて14日、28日にも合わせて120名近くを登拝させた。
 木曽福島の代官は、覚明や信者、宿の提供者を処罰したが、覚明は翌年も多くの信者を引き連れ登拝した。もはや大衆化への流れは押しとどめられなくなっていた。天明7年(1787)7月、覚明は御岳頂上にある二の池畔で逝去。享年69歳であった。

◇御嶽講……先達に率いられ多くの人が登拝
 4年後にはふもとの10か村から出された願いをうけ、御嶽神社により軽精進での登拝が許可された。同年、江戸などで活躍していた普寛行者が王滝村からの登山道を開き登拝。これにより江戸周辺でも御嶽講が盛んになった。

 2人の行者は、死後「霊神」としてあがめられ、弟子や信者は「講」と呼ばれる組織をつくり教義を広めていった。御岳登拝はもっとも大切な行事であり、聖地巡礼の旅でもある。精進潔斎の白装束をまとい金剛杖を持ち「六根清浄」と唱えながら、先達に率いられた講中が各地から御岳山をめざした。名古屋からは下街道からゆく人が多かったという。
 御岳山中には、数多くの霊地がある。講にゆかりの霊地で参拝や「御座」という神降ろしの神事を行い祈念した。登山路を開いた「覚明霊神」「普寛霊神」の出身地の関係から、名古屋方面の講は黒沢口、江戸方面は王滝口から入山することが多かった。



稲垣安忠の碑
    御嶽神社の右、境内の外れに明治24年に建立された萩野村長稲垣安忠の碑が建っている。
 稲垣家は代々別小江神社神社の神官を務めてきた家柄で、安忠はその傍ら寺子屋の師匠をしたり、郡会議員や郡の書記、村長などをした。

 碑には次のように記されている。(旧字を新字に変え、改行と区切りを挿入)

愛知県西春日井郡萩野村長稲垣安忠碑
 君姓稲垣名安忠 其祖與太夫諱安長 清和天皇孫経基王二十八世之後胤也 始住安井郷奉別小江神社祠官 從是十世安忠君也 
 襲其職因称従五位伊勢守 幼而果断頗富義侠
 明治九年改租 詔出選爲西春日井郡議員 十一年辞職 会官新賦租税比之舊額大有増 加是以百五村民群議鼎沸 推君以爲惣代之一 哀訴県庁而不省 衆皆請直訴于官省 君乃决意 十二年訴之内務省及地租改正局上書数十 労心尽力殆二年 然官不許而曰 後年改租之時有所改正 於是定約而帰 奉官肯慰諭 村民終得止 
 十三年二月爲愛知県等外一等出仕 十四年三月爲愛知県東春日井郡書記 十九年辞職 



 廿三年一月爲西春日井郡萩野村長 同年七月大字安井河野常受水害 因新築堤防 二十四年七月大雨破壞其堤防 而全地荒蕪 於是請鍬下年期附与之事 于官得許可 村民雀躍而喜 盖所得結果者雖依村民之一心協力 無稲垣君奔走斡旋者安得成哉 嗚呼君之功労亦不大乎 今茲明治二十四年九月闔(こう)村相謀建碑以表其功業云
                                   権少教正 犬飼武右衛門撰
                                   発起者 萩野村大字安井中

 おおむね次の主旨である。
 明治9年(1876)に郡議員に選出されたが11年(1878)に辞職した。地租改正により従来より大幅な増税になるので105の村は鼎が湧くような騒ぎとなった。安忠は総代の1人に推され、県庁に哀訴したが受け入れられないので、みなは東京の中央官庁へ直訴することにした。12年(1879)に内務省と地租改正局に数10回上書し、2年間にわたり尽力したがだめで、後年の改租時に改正するとのことだった。
 13年(1880)に愛知県の職員、14年(1881)から19年(1886)は郡役所の書記をした。
 23年に萩野村長になり7月に水害があったので堤防を新築した。しかし翌24年(1891)7月の大雨でそれが壊れたので、すべての土地に鍬下年期(年貢の減免)を官に求めて認められ、村民は歓喜雀躍した。このような安忠の大きな功績をたたえて碑を建てる事にした。

 春日井郡は地租改正を巡り一揆寸前まで緊張が高まった。その一員として活躍し、後には村長となって人々の暮らしを守った稲垣の功績をたたえた碑である。



萩野村道路元標
 別小江神社の境内に「萩野村道路元標」と彫られた石柱が建っている。この石柱は、元は萩野村役場の前に建っていたものだ。

◇萩野村?
 萩野村は「市制町村制」の施行にともない全国的に進められた町村合併により、当時の矢田川沿いに広がっていた辻・安井・光音寺の3か村が合併して明治22年(1889)に誕生した村だ。村の名は堤防が萩の名所(小僧庵の萩)であったことから付けられている。昭和8年(1933)に川中村を併合し、12年(1937)に名古屋市に合併されるまであった村である。

  ◇道路元標?
 道路元標とは聞きなれない名前だが、道路の基点を示す標石である。大正8年(1919)に道路法が制定され、その施行令に「道路元標 各市町村ニ一箇ヲ置ク」と定められた。当時の市町村すべてにこのような石柱が1本建てられていたのである。

 設置場所は、東京市だけは「日本橋中央」と決められ、ほかは「府県知事之ヲ定ム」とされている。
 愛知県下の位置は「大正9年2月17日愛知県告示第58号」で定められているが、主要道路の交差点であったり役場の前であったりさまざまである。萩野村は「大字安井字地蔵堂532」となっており、萩野村役場前の稲置街道と辻~安井~光音寺を結ぶ道路との交差点である。元標は国・県道の起終点を示すときに、告示などで「○○線 ○○村元標から○○まで」というように表示し使われた。昭和27年(1952)に制定された現行の道路法では、旧法のような設置規定はおかれておらず過去の制度となっている。



大正9年 1/50000
◇今では貴重な歴史遺産
 大正9年(1920)当時の市町村は全国で1万2000以上あり、県下では264か所、今の名古屋市内でも30数か所にこのような石柱が建てられた。その後の道路拡張などでなくなり、今も残されているのは非常に少ない。ちなみに、当時の名古屋市の道路元標は本町通と広小路の交差点に建てられ、今は本町通りの整備にあわせてモニュメントとして復元された新しい標石が交差点南東に建てられている。




 2026/02/15