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別小江神社は古くからの神社である。このため応神天皇の胞衣を奉安する神社や名古屋築城の時加藤清正が架けたという橋の石材、この地域で盛んだった御嶽教の社や霊神碑、安井村の発展に尽力した稲垣安忠の顕彰碑、今ではわずかしか残されていない道路元標などがある。 一方、近年は華やかな飾りや、月替わりの御朱印、ペットの健康祈願などでも人気がある神社である。 |
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稲垣安忠の碑 |
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| 御嶽神社の右、境内の外れに明治24年に建立された萩野村長稲垣安忠の碑が建っている。 稲垣家は代々別小江神社神社の神官を務めてきた家柄で、安忠はその傍ら寺子屋の師匠をしたり、郡会議員や郡の書記、村長などをした。 |
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| 碑には次のように記されている。(旧字を新字に変え、改行と区切りを挿入) 愛知県西春日井郡萩野村長稲垣安忠碑 君姓稲垣名安忠 其祖與太夫諱安長 清和天皇孫経基王二十八世之後胤也 始住安井郷奉別小江神社祠官 從是十世安忠君也 襲其職因称従五位伊勢守 幼而果断頗富義侠 明治九年改租 詔出選爲西春日井郡議員 十一年辞職 会官新賦租税比之舊額大有増 加是以百五村民群議鼎沸 推君以爲惣代之一 哀訴県庁而不省 衆皆請直訴于官省 君乃决意 十二年訴之内務省及地租改正局上書数十 労心尽力殆二年 然官不許而曰 後年改租之時有所改正 於是定約而帰 奉官肯慰諭 村民終得止 十三年二月爲愛知県等外一等出仕 十四年三月爲愛知県東春日井郡書記 十九年辞職 |
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| 廿三年一月爲西春日井郡萩野村長 同年七月大字安井河野常受水害 因新築堤防 二十四年七月大雨破壞其堤防 而全地荒蕪 於是請鍬下年期附与之事 于官得許可 村民雀躍而喜 盖所得結果者雖依村民之一心協力 無稲垣君奔走斡旋者安得成哉 嗚呼君之功労亦不大乎 今茲明治二十四年九月闔(こう)村相謀建碑以表其功業云 権少教正 犬飼武右衛門撰 発起者 萩野村大字安井中 おおむね次の主旨である。 明治9年(1876)に郡議員に選出されたが11年(1878)に辞職した。地租改正により従来より大幅な増税になるので105の村は鼎が湧くような騒ぎとなった。安忠は総代の1人に推され、県庁に哀訴したが受け入れられないので、みなは東京の中央官庁へ直訴することにした。12年(1879)に内務省と地租改正局に数10回上書し、2年間にわたり尽力したがだめで、後年の改租時に改正するとのことだった。 13年(1880)に愛知県の職員、14年(1881)から19年(1886)は郡役所の書記をした。 23年に萩野村長になり7月に水害があったので堤防を新築した。しかし翌24年(1891)7月の大雨でそれが壊れたので、すべての土地に鍬下年期(年貢の減免)を官に求めて認められ、村民は歓喜雀躍した。このような安忠の大きな功績をたたえて碑を建てる事にした。 春日井郡は地租改正を巡り一揆寸前まで緊張が高まった。その一員として活躍し、後には村長となって人々の暮らしを守った稲垣の功績をたたえた碑である。 |
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| ◇道路元標? 道路元標とは聞きなれない名前だが、道路の基点を示す標石である。大正8年(1919)に道路法が制定され、その施行令に「道路元標 各市町村ニ一箇ヲ置ク」と定められた。当時の市町村すべてにこのような石柱が1本建てられていたのである。 設置場所は、東京市だけは「日本橋中央」と決められ、ほかは「府県知事之ヲ定ム」とされている。 |
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| 愛知県下の位置は「大正9年2月17日愛知県告示第58号」で定められているが、主要道路の交差点であったり役場の前であったりさまざまである。萩野村は「大字安井字地蔵堂532」となっており、萩野村役場前の稲置街道と辻~安井~光音寺を結ぶ道路との交差点である。元標は国・県道の起終点を示すときに、告示などで「○○線 ○○村元標から○○まで」というように表示し使われた。昭和27年(1952)に制定された現行の道路法では、旧法のような設置規定はおかれておらず過去の制度となっている。 |
![]() 大正9年 1/50000 |
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| ◇今では貴重な歴史遺産 大正9年(1920)当時の市町村は全国で1万2000以上あり、県下では264か所、今の名古屋市内でも30数か所にこのような石柱が建てられた。その後の道路拡張などでなくなり、今も残されているのは非常に少ない。ちなみに、当時の名古屋市の道路元標は本町通と広小路の交差点に建てられ、今は本町通りの整備にあわせてモニュメントとして復元された新しい標石が交差点南東に建てられている。 |
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