オチン山に建つ
忠 魂 社

 まわりより少し小高いオチン山に忠魂社が建っている。
 入口には紀元2600年に建てられた記念碑が、社殿裏手には忠魂碑があり、この地も巻き込まれた太平洋戦争の歴史を伝えている。




 森の中には小さな神社があった。鳥居の傍らに成長した樹木に隠れるように石柱が建っている。忠魂社と刻まれ、裏面には皇紀二千六百年建立と書かれている。皇紀二千六百年といえば、昭和15年(1940)だ。神武天皇が橿原宮ではじめて即位したときから紀元二千六百年にあたるとして、各種の奉祝行事が行われた年である。
 この年の10月12日には第二次近衛内閣の下で、国民統制組織である大政翼賛会が発足した。
 11月10日には、宮城前広場で、盛大な皇紀二千六百年の記念式典が行われ55,000人が参加した。

 樹々のあいだに埋もれ、ひっそりと建っているこの皇紀二千六百年の記念碑を揮毫したのは、名古屋出身の松井石根だ。中国大陸では、戦火が次第に大きく燃えあがろうとしていた。
 鳥居の傍らの樹々のあいだに隠れるようにして、顔を出している松井石根の揮毫した皇紀二千六百年の記念碑は、過去の遺物が、のっそりと顔を出してきたような錯覚に陥った。

 昭和15年(1940)、皇紀二千六百年の年には全国民は新しい国家が大政翼賛会の下で生まれると期待し、大いにわきたった。味鋺地区でも盛大な式典が行われ、その記念碑が神社の樹々の中に隠れているものだ。

 社殿の裏にも記念碑がある。岡田弘という方が建てられたものだ。岡田家で戦死された3人の方の記念碑である。
『名古屋市楠町誌』を開いてみた。忠魂碑の由来という次のような一文を見つけた。

 「忠魂社は、楠町味鋺一七〇〇番地の岡田家の屋敷内に、邨内忠魂社として昭和十五年九月二十三日に創立されましたが、昭和四十九年十二月二十三日味鋺字名栗三十五番地のオチン山に遷座申しました。続いて四月上旬に忠魂碑を建立し、三忠魂の戦歴を碑に彫刻し、永久に其の功績をたたえんと建碑除幕の式典を護国社祢宜岩本氏が斎主となり、慰霊安鎮のお祭りを執行しました。
 御祭神は、創立当時は三忠霊を祭り、その後、靖国大神、伊勢の大神、西八龍大神、東八龍大神等を合祀しました。

 尾張徳川家の家老、竹腰公にお仕えした武士で白石と申す人が、現在の名古屋市鷹匠町に住んでいました。竹腰公が毎年此の付近一帯にこられて鷹狩りをされた時、白石さんはお供をして来られて、此の山にオチン(御亭)を建てられたのです。

社殿

忠魂碑
 岡田家は先祖代々この味鋺に住んでいて、オチンの維持管理をして、殿様の御越しの時は一生懸命に御歓待申し上げたので、其の功により、このオチン山付近一帯をもらい受けたものです。
 現在は、日露戦争並に、日支事変、大東亜戦争でお国の為に戦死した約二四六万人の御霊を併せてお祀り申し、毎日、慰霊安鎮の感謝の誠を捧げています。」

 『楠町誌』でも異例の一節だ。他の文章と異なり、この神社の説明文だけは、岡田家の方が記されたもののようだ。
 一つの神社のたどる運命、それはまた、この国の歴史の流れを表すものでもあった。

 かつてこの地を知行地としていた藩家老の竹腰氏が休んだという亭が建っていた森も、今は祠の鎮座するひっそりとしたたたずまいに変わっている。


(追記)
 『名古屋市楠町誌』は昭和32年(1957)の発刊だが、それには忠魂社の記述はなく、55年(1980)発刊の復刻版には記載されている。32年(1957)当時は岡田家の邸内に祀られる私社だったので掲載されず、その後、49年(1974)にオチン山に遷座して公的な神社になったので復刻版に追録されたと考えられる。


※この項目は、故澤井鈴一氏が記述したものに、筆者が補正・追記。
 なお、かつては鬱蒼と樹が茂る森になっていたが、その後枝払いなどが行われ今は明るい雰囲気である。




 2024/11/20