空襲・伊勢湾台風
長 全 寺

 神社や仏閣は永く同じ地に鎮座していることが多いが、時代の流れで移転したものもある。長全寺は戦国時代に清須で創建され、名古屋開府で名古屋の新栄に移転し、太平洋戦争で焼けて戦後に現在地へと移ってきた。伊勢湾台風にも遭うなど、さまざまな苦難を乗り越え、今は上飯田の地で戦争の残酷な痕跡も今に伝えながら、落ち着いたたたずまいの寺となっている。




 本堂の高い檀の上に釈迦牟尼仏の像が安置してある。目を凝らし見てみる。薄暗くて像がはっきりと見えない。
 「私の寺は戦争で焼けてしまいましたが、この本尊だけは一宮の萩原にある成福寺に預けてありましたので助かりました。成福寺は、先住の兄弟子の寺です。名古屋の空襲が続くので、見舞いにこられた成福寺の住職が、本尊を萩原に疎開させてはどうかと勧められました。住職は、それはだいじに抱えるようにして持っていかれました。おかげで寺は焼けましたが、本尊は今もこうして拝ませて頂けます」
 長全寺は、この地に越してくるまでは新栄町にあった。亀尾山と号す曹洞宗の寺で、江戸時代には990坪もあり、含笑寺の末寺であった。

 創建は遠く永禄7年(1564)にさかのぼる。開祖は春岩宗沢である。慶長(1596~1615)遷府の時に、清洲から名古屋に移ってきた。長く新栄町にあった長全寺も戦火のために、あえなく消失してしまった。
 「あの時は逃げるに精一杯で、寺が燃えている記憶は残っていません。ふとんを頭から被って逃げました。小学生の時でした」
 住職は、戦後すぐに写された航空写真のパネルを指さして、「ここに寺がありました。今は薬局になっています」といわれる。住職が指さされた先は、CBCの東、飯田街道と広小路が交差しているあたりだ。
「戦後の復興事業で境内が二分されることになりました。寺をどこかに移転しなければということで、適当な土地を探していました」。昭和20年(1945)に、今の地を購入し、昭和33年(1958)に本堂が完成した。

 本堂が完成した直後伊勢湾台風に襲われた。
 「板戸が矢田川の堤防近くまで飛んでいって、それを拾ってきました」。当時、このあたりは田んぼの中であったという。台風が過ぎ去った翌日、板戸を探して、農道を走りまわる住職の姿が彷彿と浮かんでくる話だ。上飯田からは、名古屋駅まで通じる市電が走っていた。市電がのんびりと走る音が聞こえてきたという。
 本堂をおりて庭に出る。
 「そこにある灯籠も新栄町から持ってきたものです」と住職がいわれる。年代を経た石仏や立派な灯籠を見ていると、往時の長全寺のたたずまいが浮かんでくる。戦火をくぐり抜けてきた灯籠もあれば、焼けて焦げた灯籠もある。痛々しい姿が、戦争のむごたらしさを表している。庭は新たに京都の龍安寺(りょうあんじ)のような石庭が設けられた。白砂にきれいな箒目が入れられ、庭石が島のように配置されてある。石庭を取りまく苔の緑との対比が鮮やかで、華やかななか落ち着いたしつらえになっている。

 平成15年(2003)には山門、その前年には客殿が建立された。住職から客殿に案内していただいた。客殿は耕心館と名づけられている。達筆で、感謝のこころを持ちなさい等の、人としてのあるべき姿を教えることばがいくつか書かれている。心の豊かな人に、若い人々を育てたいという意図で建てられた客殿だろう。

 長全寺は静謐に満ちた寺だ。何かゆったりとした気分になって寺を出た。
                                     (故 澤井鈴一氏記述)


新栄にあった頃の様子
 『尾張名所図会』


旧所在地
明治2年の地図 『尾府全図』


旧所在地
現在の地図では









 2025/12/02