日待地蔵の
清 学 寺

 鎌倉時代に創建された清学寺には、承久の乱にまつわる話が伝わっている。
 3代将軍実朝が暗殺され、朝廷は政権を取り戻すため倒幕の宣旨を出した。この地域の荘司であった山田一族は宣旨に応じて出陣したが敗北し、留守を守っていた母親は14才で出陣して越後に流された息子の帰りをお地蔵さまに祈り続けた。門前の地蔵がそれであるという。




 曹洞宗の名刹、清学寺は正保年間(1644~8)の創始で、開基は巾下の奈良屋源右衛門である。

 古い歴史のある寺院らしく、伝説にみちた遺物が寺には残っている
。住職は「これが清正橋ですよ」といって、庫裏の前の庭に置かれている細長い石を指さされた。稲置街道の小さな川に架かっていた古くからある橋、それを人々は清正橋と呼んでいた。その橋が清学寺に持ちこまれたのであろう。


 「寺の門前にある地蔵は日待地蔵といっています。山田重忠の孫、兼継の帰るのを待ち母親が祈った地蔵だと伝えられています」。住職の話を聞きながら日待地蔵を見ていて、次のような場面を思い描いていた。
 母親は大勢の人に食事を用意した。14歳になったばかりの兼継は、緊張して顔をまっ赤にしながら、食べている。兼継のかたわらで、にこにこ笑いながら夫の重継は、わが子の顔をながめている。大勢の人に囲まれながら、兼継の祖父、山田郡安食荘の荘司である山田次郎重忠は、大将らしく一座の人々を、にこやかな顔でみている。

 京都の後鳥羽上皇から宣旨(天皇の命令を伝える文書)が重忠のもとに届いたのは、承久3年(1221)の年が明けてすぐのことであった。



 承久元年(1219)1月27日、鶴岡八幡宮で、鎌倉幕府の3代将軍源実朝が暗殺された。鎌倉幕府に不満を持っていた上皇が、この機会をのがすはずがない。幕府を倒すために兵をひきつれ、京都の上皇のもとにはせ参じよという宣旨を持って、使者が山田の庄にきてから、あわただしい日々が過ぎた。重継が、子どもを連れてゆくといった日から、母親は眠れぬ日々が続いた。重忠の乗る馬の後を、兼継が馬に乗って、母に手をふって出かけた。兼継の姿が消えるまで、母親は門の前でいつまでも見送っていた。

 幕府の大軍が、京都をめざしてのぼっているといううわさが山田の庄に入ってきた。京都からは、重忠が上皇の信頼も厚く、上皇方の中心になっているといううわさも入ってきた。兼継の母親は、毎日、毎日、お地蔵さまの前で、息子がぶじに帰ってくることを祈っていた。

 重忠たちは承久3年6月3日に幕府軍を討つために京都を出発した。承久の乱が始まったのだ。
 5日の夜から木曽川をはさんで両軍の戰いが始まった。重忠の軍は幕府方の大軍を墨股(すのまた)川で迎え撃って戦った。上皇方は幕府方に攻められ逃走したが、重忠の軍はふみとどまり、わずか90騎で勇敢に戦った。
 上皇方は追いつめられ、京都の大堰(おおい)川で最後の戦いをした。重忠は、重継が敵をひき寄せ戦っているあいだに自害した。父が自害するのを見とどけると力を使いはたした重継は斬られてしまった。母親のもとに夫の討ち死に、義父の自害、そして、母が帰りを待ちつづけていた兼継が越後の国へ流されたという知らせが届いた。母親は兼継が越後に流されてからも、山田の庄に一日も早く戻ってくることができるようにお地蔵さまに祈りつづけた。

 人々は、いつかそのお地蔵さまを日待地蔵と呼ぶようになった。明治になってから、子どもを持つ母親の気持ちが転じて、日待地蔵は子どもが授かるお地蔵さまとなった。
 日待地蔵には、いつも美しい花が供えてある。子を思う母親の思いは、幾時代たっても変わらない。子の健やかな成育を願う母が供えた花であろうか。
                                  (故 沢井鈴一氏記述)




 2026/02/20