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霊光院には延命地蔵が祀られている。あちこちにある長寿を願う延命地蔵ではない。昭和20年3月の空襲の時、三階橋付近で避難民の上に爆弾が落とされて250名余りが亡くなった。その犠牲者を弔う地蔵である。その他に、飯田学区から出征して戦死した方、戦災で亡くなった方の慰霊碑や、日露戦争・太平洋戦争で戦死した方の個人慰霊碑、庚申塔や役行者像などもあり、地域が歩んできた歴史が残されている寺である。 |
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| 宝月山霊光院は、臨済宗の寺である。元和元年(1615)、上飯田の斉藤四良右衛門が祖先の冥福を祈って建てた。 境内の片すみには、たくさんの石仏が置かれている。上飯田のあちらこちらにまつられていた野の仏が、ここに集められたのであろう。区画整理、道路の拡張など地域が変貌をとげるごとに野に置かれていた石仏が寺に運びこまれ、これらのおびただしい数になったのだ。かつて、村の人々は、これらの石仏に手をあわせ野良に出かけ、帰途には、また手をあわせて家路をたどったことであろう。 野の仏だけが、寺に移されたのではない。お堂までもが、この霊光院に移ったのだ。 霊光院に移されたお堂について、『上飯田のむかし』(著:水野鉦一氏)は、次のように記している。 「山門を入ったところにあるお堂は太平洋戦争の末期、昭和二十年三月二十四日の夜、アメリカ軍B二九型爆撃機が名古屋地方を空襲しました。照明弾がたくさん落とされ真昼のように明るくなりました。その明るさに驚いてこの近所の人も、遠くは大曽根あたりの人達までたくさん三階橋方面へぞろぞろと避難して雑踏していました。 その人の群がっているところへ中型爆弾数発が投下されました。その爆弾で名鉄ビル前から夫婦橋にわたって二百五十名余りの爆死者が出ました。これらの人々の冥福を祈り、終戦後柴山市十郎さんの発願で、当時の名鉄駅(現在の名鉄ビル)北西角に地蔵尊を建て供養されるようになりました。昭和四十一年に名鉄駅が改造され名鉄ビルができるときに霊光院へ遷座されたものです。 毎年三月二十四日を大祭日として供養が続けられています。この催しは飯田学区自治連合会が受け継いでいましたが、飯田学区が宮前学区と分離した後は、飯田・宮前両学区の自治連合会によって行われています。戦争の犠牲となられた二百五十名あまりの方々のご冥福をお祈りいたします。」 この時に移設されたお堂は今は無い。平成20年8月に、新たに2代目の地蔵が安置され、山門左手に露天でたたずんでいる。その前に置かれている水盤?の台座には、正面に「延命地蔵菩薩 三界萬霊位」、右側面に「昭和二十年三月二十五日」、左側面には「設立発起人 飯田連区町内会」の文字と会長・副会長の名前がある。その下の礎石には42の法名(一部本名)が彫られているが、「童子」「童女」がついた戒名もある。 地蔵の北側には、戦死者の供養塔が2基立っている。 塔の表には「飯田殉国者霊位」、裏面には建立者の幸村銀造と書かれ、もう1基は「飯田戦災者霊位」裏面には「幸村すず」と名前が刻まれている。被災から3年後の昭和23年3月に建てられたものだ。 この他に戦死者の個人碑が2基ある。日露戦争で戦死した人の碑(建立:明治43年)と、太平洋戦争で戦死した人の碑(建立:昭和46年)である。 また、山門を入った左手には「庚申塔」と彫られた石碑と役行者像があり、かつて庚申信仰や修験道が村人の生活に深いかかわりを持っていたことが覗われる。 |
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![]() 空襲で亡くなった方を弔う延命地蔵と 慰霊碑 |
![]() 台座には空襲犠牲者の名 |
![]() 飯田学区の殉国者・戦災者慰霊碑 |
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![]() 日露戦争戦死者の慰霊碑 |
![]() 太平洋戦争戦死者の慰霊碑 |
![]() 庚申塔 |
![]() 役行者像 |
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