名古屋城の北に広がる 名城公園。広い敷地にうっそうと繁る木々、池には蓮が水面に浮かび、園路でジョギングする人、こずえ越しに見える天守閣をスケッチする人。季節を問わず人の姿の絶えることがないこの公園は、かつては一般の人は入ることのできない、お殿様の庭であった。 | |||
|
名古屋城 なぜこの場所に | 家光が気に入った 庭 | 変りゆく 御深井の庭 |
名古屋城 なぜこの場所に |
||||||||||||||
名古屋城は、大阪に残る豊臣方に対抗するため、家康が築かせた城だ。 当時この地方の中心地であった清洲城は、規模が小さくて大部隊が駐屯できないこと、低湿地のため水攻めに弱いことが懸念され、新たに大規模な城郭を築くことになった。 名古屋・小牧・古渡の3か所が候補に上がったが、守りやすく攻めにくい地形、将来の発展性、隣国への交通の便などから名古屋に決まったといわれている。 |
||||||||||||||
自然の要害……北側の湿地帯 城は名古屋台地の北端に造られた。台地と周辺の低地には10mの標高差があり、天守閣あたりが台地の北端だ。 崖下は「馬の背も立たない」と言われる深い沼沢地が広がっていた。これを更に掘り下げてお城北側と西側の御堀が造られた。今のお堀は土砂の堆積で浅くなり、道路に近いところは1mも無いほどだが、かつて清洲櫓の西は3間(5.4mの船竿が届かないほどの深さであった。 台地の北側になぜ沼沢地があったのだろうか。 台地の北を流れる矢田川や庄内川は周辺の土地より川底のほうが高い天井川のため、染みこんだ川水が地下水位を上げており、江戸時代になっても「川田」とよばれる、水が湧き出すような田があったほどだ。台地の上にも集落があったが規模は小さく、ほとんどは畑や林が広がっていた。広い台地に降りそそぐ雨は地中に染みこみ地下水になり、崖下で湧き出していた。富士山や阿蘇山の山ろくに湧水の名所がたくさんあるのと同じだ。このため、崖下に沼沢地が広がり自然の要害になっていたのである。 この地は「ふけ」とよばれた。広辞林によれば「深け」とは、湿地、沼地のことだ。ここに張り出して造られたのが名古屋城の「御深井丸」だ。北に広がる沼沢地のうち一番要害の地をお庭として残し、周辺は藩士の居宅とした。 |
||||||||||||||
家光が気に入った 御深井の庭 |
||||||||||||||
家光の来名 御庭を整備 ここが庭として整備されたのは、初代藩主 義直のときだ。 『金城温古録』には次のように記されている。 古老の話に、敬公(義直)御代、将軍家御上洛の御設に、御庭造あり、是、御深井御庭の始也。 家光は3回上洛しており、最後の寛永11年(1634)の上洛時に名古屋城に泊まっているので、この宿泊に備えて整備したのである。 |
||||||||||||||
大きな蓮池 田圃 瀬戸山 一般に大名の庭というと、岡山の後楽園、熊本の水前寺公園などを思い浮かべる。映画では築島があり錦鯉が泳ぐ池、見事な石組みと良く手入れされた松が岸辺に影を映すなか、金襴豪華な着物をまとった殿様とお姫様がお供を従えて庭をめぐる風景が映し出される。しかし、御深井の庭はだいぶ趣が異なっていた。 |
||||||||||||||
当時の庭は、今の名城公園よりはるかに広く、国家公務員住宅などが
巨大な池を設けたのは、攻めてきた敵は池を迂回しなければお堀までたどり着けず、一方お城側は何もない池があることで見通しがきき敵の動向をつかみやすいという軍事上の理由からであった。 池の北と東には田圃があった。今では庭に田があるのは異常な感じを受けるが、この庭には確かに有ったのである。「御作人」と呼ばれる人が耕していたという。肥料は二の丸の便所から汲み取った人糞を使ったと記録されている。 池の北東には山を築き瀬戸山と呼ばれた。ここには瀬戸から招かれた陶工が焼物を造っていた。「御深井焼」とか「御庭焼」とよばれたものだ。 岸辺に3つの茶屋 池の岸には3つの御茶屋があった。池の北側に「松山御茶屋」、東には「瀬戸之御茶屋」、城に近い南に「竹長押御茶屋」。これらの茶屋は、それぞれ用途が異なっていた。 もう一度『金城温古録』を見てみよう。 御茶屋は御書院・御広間等の如き式正御殿の外に、御燕(クツロギ)の御座敷・御数寄屋など在る所を申なるべし。其御茶屋を御用ひの体格に、三等の御差別有り、これを書に讐れば、真・草・行の如し。 其第一、松山は、御公(ハレ)の御用の所なれば、是、真なり。 瀬戸は、歌舞管絃の御時、御遊宴の所、是、草也。 竹長押は、万一、祝融の災(火災)あらん時は、御動座の御殿なるが故に、関東御在府、御留守の年には、御小納戸御役所を妥に移されて、御奥の政府と成来りし所なれば、是、行也。 茶屋というと、行楽地にある店先に腰掛を置いた簡素なものを思い浮かべるが、御深井の茶屋はそんなちゃちなものではない。 松山御茶屋は、瓦葺の門を入ると茅葺の建物があり、中は広間に上段の間、涼み所がある。別棟の台所棟、さらに路地と数奇屋(茶室)と御堂まで備えた立派なものだ。上使(幕府からの使い)が来たときの接待所に使われたという。 瀬戸御茶屋の屋根は茅葺、上段の間と広間を備え、別棟で瓦葺の台所があった。座敷の半分は池に張り出して造られており、池の向こうの林の梢越しにそびえる天守閣が望まれ、非常に風趣があるところだ。御深井での饗宴には必ずここが使われたという。 竹長押御茶屋は、茅葺屋根に外の鴨居の長押に二つ割の大竹がめぐらされていた。これが名前の由来だ。28坪で6室、他の茶屋と異なり、緊急時の避難所や役所として使うものだった。 二の丸と舟で通行 お城との交通には船が使われた。二の丸西の空堀に
|
||||||||||||||
|
||||||||||||||
変わりゆく 御深井の庭 |
||||||||||||||
蓮池の水が減少 大きな池が特徴の御深井の庭だが、水がだんだん枯れてきた。 台地の上に名古屋の大きな町がつくられ、建ち並ぶ家により地中にしみ込む雨水が減少した。一方家々では井戸から地下水を汲み上げるため、台地下の池では湧出量が減ってきた。併せて土砂の流入により池はだんだん埋まってきたのである。 御用水の開削 すでに、初代義直の時代から池の水位低下が現れ、懸念していたという。 2代光友も非常に心配していたところ、近松という人が解決方法を建策し、光友はただちに実施を命じた。 すなわち御用水の開削である。 寛文3年(1663)に、庄内川の水が矢田川の下をくぐりお城まで流れ来るようになった。お庭の北東隅の沈砂地を経て蓮池とお堀に豊かな流れが注ぐようになった。沈砂地は、土砂で池や堀が埋まるのを防ぐためである。 浚渫により池を維持 しかし、その後も池はだんだん浅くなり、延享年間(1744~8)と天明年間(1781~9)には浚渫が行われている。文化年間(1804~18)になると非常に浅いところが多くなり、引き続く文政・天保にも浚渫が行なわれ、その土で何か所もの島を築いた。 従来、お城背面の要害として設けられたこの池には小さな弁天島以外に島がなかった。遮蔽物のない広大な水面があることで遠くまで見通せるようにし、いざというときの備えにしていたのだ。この浚渫により「古伝の御備、ここに於て悉く匿るる」と『金城温古録』の著者 奥村得義はなげいている。永年の太平のなか、軍事よりふだんの景観のほうが重視されるのも時代の流れであろう。 明治になり練兵場 世が変わり、明治になると城は軍事施設ということから、原則として軍が管理することになった。名古屋城は明治5年に本丸と二の丸が、7年には三の丸全部が陸軍省の所管とされた。 御深井の庭は城ではなく庭ということで徳川家の所有のままであったが、22年になるとここも練兵場拡張のため陸軍省の所管になった。26年には本丸が御料地に編入され名古屋離宮になったが、御深井の庭はその後も終戦まで北練兵場として使われ、池は姿を消し広大な土地は新兵たちの汗と涙の場であった。 戦後は名城公園 戦後になり、昭和22年に公園として都市計画決定され、24年から失業対策事業で敷地の造成工事が始まった。32年になり名古屋城天守閣の再建が始まるとともに公園も本格的な整備が始まり、かつてより狭いもののふたたび池が造られ、ジョギングコースなどが設けられている。うっそうと繁る木々に囲まれ、梢越しに見え隠れする天守閣、池には蓮が花開きかきつばたも植えられている。殿様や兵隊たちしか入れなかった土地に、親子連れがボール遊びを、お年寄りがひなたぼっこを、健康ブームのなか老若男女がジョギングをしている。大きく姿をかえながらも、歴史を今に伝える特異な公園である。 |
||||||||||||||
|
||||||||||||||
【参考】 『金城温古録』『土木行政のあゆみ』 |
2008/01/16・2021/02/01改訂 |
|