西八龍社は、庄内川堤防のすぐそばに鎮座している。元は少し南にあったのだが、川幅拡幅のため今の場所へと遷座した。 雷除けに御利益があるといわれている神社だ。昔は「地震 雷 火事 おやじ」が怖いものの代表で、雷除けのお札を求める人がたくさん参拝したという。 |
|
|||
昔は落雷で甚大な被害が出た。落命する人、家を焼け出される人、毎年、雷の季節になると多くの犠牲者が出た。 味鋺の西八龍社は、雷除けの神社として近郊の人々の崇敬をうけていた。 |
|||
戦前、近郊の部落では、村の代参の人が西八龍社に出かけて、お札をむかえてきた。西八龍社に参詣することは、年中行事のひとつでもあった。春日井市に住む古老も自転車で庄内川を走り、お札を迎えに出かけられた。 「お札は大きいものは5銭、小さいものは2銭でした。毎年、旧の6月28日に部落の代表のものが出かけました。当日は氏子の人たちや味鋺の青年団の人たちが神楽をかなでて西八龍社はたいへんなにぎわいでした」 今はひっそりとして、訪れる人のまれな西八龍社も、往時は雷除けのお札をむかえる人々でにぎわっていた。 |
昭和32年頃の神社 『名古屋市楠町誌』 |
||
古老の話によると、西八龍社が、例祭日に雷除けの御守りを受けに代参する人でにぎわうようになったのは、文政年間(1818~1830)からであるという。 西八龍社の祭神は高靇(たかおう)神(高竜神)である。福徳町の八龍社に祀られているのと同じ神様で水の神様だ。創立年代は不詳であるが、承平年間(931~938)であると伝えられている。 |
◇元は50m南に鎮座 西八龍社は庄内川の堤防の真下にある。以前は、西八龍社のあたりで、堤防が川の内部にせり出していた。昭和25年(1950)から大規模な庄内川改修工事が始まり、せり出していた堤防を50m北に移して新しく堤を築くことになった。神社の移転で、何かたたりでも起こるといけない。関係者は、計画した移転工事をためらっていた。祈祷をし、氏子の人たちが神社の移転を請け負ったので支障もなく移転は終わり、戦災で焼けたままであった社殿も新築されて現代に至っている。その時に植樹された樹々が、今は大きく空にそびえている。 昭和25年の移転の時に工事関係者が手をくだすのをためらったことには理由がある。 昭和18年(1943)のことだ。名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所の廃水のため、地蔵川の改修工事が始まった。水分橋の下手から庄内川の右岸寄りに工事は進み、西八龍社の境内の工事に入った。すると、人夫たちが1人、2人と病気になった。機械も動かなくなってしまった。神域を侵したたたりであると工事は中断されてしまった。 昭和25年の移転騒動の時に、戦前の話を聞いていたので、人夫たちは誰も移転工事に関わろうとしなかったのだ。 |
|||
昭和22年 1/25000 |
昭和43年 1/25000 |
◇イタチ騒動で燃えた? 杉の木 西八龍社の拝殿の前に黒こげになった杉の木がある。この杉の木は、焼ける前は空洞になっていた。村の若者が空洞に大きないたちが入るのを見て追い出そうとし、火をつけたところ、みるみるうちに燃えあがり、味鋺村ではたいへんな騒ぎでポンプ車を持ち出しやっと火を消しとめた。若者は病気になり、しばらく起きあがれなかったという。 なお、境内に建つ説明板では、雷が落ちて焦げたとのことである。 |
|||
◇御利益は実証済 この神社の雷除けの御利益について、明治はじめの話が伝わっている。 庄内村の若者が3人、仕事の帰り歩いていると、突然、空がかき曇って雨が降り出した。近くの大杉の下で雨やどりをした。雷鳴がとどろいて杉の木に落雷し、若者のうち2人が死んでしまった。助かった1人は、西八龍社の雷除けの御守りを身につけていた。死んだ2人は御守りを身につけていなかったという。このことがあってから庄内村では、どの家でも西八龍社からお札を迎えてまつったという。 現代では、落雷に対する恐れの畏怖は喪失してしまっている。信仰の形態も徐々に変化をしているようだ。 ※この項目は、故澤井鈴一氏が記述したものに、筆者が補正・追記。 |
2024/11/21 |
|