上飯田にあった
繊維の大工場

 城北地域は農村地帯であったが大正頃から耕地整理事業が行われ、繊維関係を中心にたくさんの大工場ができ工業地帯に変わった。しかし、現在では工場の郊外移転や繊維産業の衰退などにより、かつての工場跡地の多くは団地やマンションになっている。




 ◇ 小松組製糸
 岡谷の製糸会社で、大正6年(1917)に名古屋工場を開設した。上飯田で最初の工場であった。
 『西春日井郡誌』(刊:大正12年)では、郡内の年間生産額で1番多いのは帝国撚糸織物(300万円以上)、次が原製糸(200万円以上)である。それに次ぐ150万円以上に小松組製糸場・豊田織布・御幸毛織の3社が揚げられ、小松組製糸は郡内で5本の指に入る大工場であった。ちなみに東京モスリンは15万円以上、川上絹布は6万円以上と書かれている。

 


◇川上絹布…………(故 沢井鈴一氏 記述)
  過ぎし昔の夢なれや  工女工女と一口に
  とかく世間のさげすみを うけて口惜しき身なりしが
  文化進める大御代の  恵みの風に大道を
  なみせる古き習しや  思想を漸く吹き払い
 この歌は、川上貞(芸名・貞奴)が大正7年(1918)に上飯田につくった川上絹布会社の社歌である。

 川上絹布会社では、15、6歳から20歳まで40~50人の女工が働いていた。作業は45分働き、15分休む。紺のセーラー服に靴をはき、女学生のような格好をしていた。昼休みの運動にはテニスをする。テニスコートのほかにプールも工場にある。全員が寮で生活をしていた。夜にはお茶、お花、和裁などの習いごとをした。休日には演芸会などのレクリェーションが行われた。

 厳しい労働と安い給料で、朝早くから夜遅くまで働く。自分に与えられた仕事の割当てができなければ厳しくしかられる。明治から大正の初めにかけての女工たちの生活は、「世間のさげすみ」をうけるみじめな生活だった。川上絹布会社は、今までの女工の生活とは、まったく違う生活を送ることのできる新しい会社であったのだ。

 川上絹布会社を上飯田につくった川上貞は、明治時代に夫の川上音二郎とともに、それまでの歌舞伎とは違った新しい芝居の新派劇をつくった。
 明治44年(1911)、川上音二郎がなくなった。夫の死後、大正7年(1918)から貞奴は名古屋の二葉町で、名古屋電灯会社、愛知電機鉄道会社の社長であった福沢桃介と新しい生活を始めた。桃介はのちに、大井ダムを完成させ木曽川の水力発電に手をつけた実業家である。

◇東京モスリン
 明治29年(1896)に東京モスリン紡織㈱として東京日本橋に設立。日本で最初の毛織会社としてモスリン(日本では薄手の毛織物)の製造を開始し、大正11年(1922)に名古屋工場が完成した。昭和11年(1936)に大東紡㈱に改称し、現在はダイトウボウ㈱になっている。

◇東洋紡績
 明治15年(1882)創業の大阪紡績と19年(1886)創設の三重紡績が、大正3年(1914)に合併して誕生。平成24年(2012)に東洋紡㈱に改称。

   
昭和12年 『名古屋市街全図』
なお、昭和4年の地図では、
東洋紡績のか所は
東京モスリンになっている

 
昭和30年 『名古屋市街図』

 
現在 『スーパーマップル』




 2025/12/01