羊を祀った?
羊 神 社

 名古屋の北区辻町に羊神社が鎮座している。珍しい名前で、境内には羊の石造物などがあちらこちらにある。さては羊を祀る神社と思いきや、祭神は天照大御神と火之迦具土神だ。はるか古代に羊太夫が群馬からこの地を訪れ、人々が平和に暮らせるよう火の神を祀ったのが、羊神社の始まりとの伝承が残されている。

    なぜ? 羊神社   群馬から羊太夫が来訪?



なぜ? 羊神社
   日本は八百万(やおよろず)の神の国。天照大神から、風の神、地の神、竈の神、便所の神様まで居るという。堀川からほど近い辻町に、羊神社がある。さては、羊も神様になったのだろうか。どんな御利益があるのだろう。羊だけにお祈りすれば着る物には困らないのだろうか。それとも穏やかな性格に変われるのだろうか。

 拝殿に向かう石段手前には、羊の石像が親子連れでのどかに座っている。首にはしめ縄がネックレスのようにかけられている。蕃塀の羽目板部分も中央に羊が居る。手水鉢の水口も羊だ。拝殿奥の欄間には二匹の龍が向かい合う姿が彫刻されているが、その両側には昭和54年〔未(ひつじ)年〕に奉納された、羊を彫った額が掲げられている。









 旧社格は村社で、祭神は天照大神・火之迦具土(ほのかぐつち)神で羊の神様は居ない。式内社だから古くからある由緒正しい神社だ。『尾張名所図会』には「辻村にありて今神明社と称す延喜神名式に山田郡羊神社、本國帳に從三位羊天神とある官社也。今村の名を辻といへるは羊の省かりたる也とそ」と記され、「辻村」の名は「ひつじ」から「ひ」を省いたものとしている。

 『尾張徇行記』には
 「府志曰、羊天神、在辻村、今称明神是也、延喜神名帳曰、山田郡羊神社、本国帳曰、従三位羊天神、按旧事紀曰、火之産霊加具突知比都自(ホノムスヒカクツチヒツジ)者、蓋火雷(ヒツヂ・ホノツヂノ)命歟、或曰伊勢国多気郡火地神社同神歟 ○本国帳ニハ、田中庄辻村称神明社トアリ」とある。
 「羊」は「比都自」あるいは「蓋火雷」と書くのが古来の姿のようだ。

    本殿などの建つ一角は少し高くなっているが、村絵図を見ると「古堤通本田畑」と書かれた場所に隣接しており、かつての矢田川自然堤防上に神社が造られたと考えられる。

 神社の由緒書では本殿は慶長18年(1613)に再建され、天保9年(1838)に改築されたとのことなので、180年以上前の建築である。

拝殿前から鳥居方向




 拝殿右手に境内社が並んでいる。左から白山社・秋葉社(相殿)、津島社・御嶽社(相殿)、山神社・水神社(相殿)、稲荷社である。




群馬から羊太夫が来訪?
   この神社には、次ぎのようなおもしろい由緒が伝わっている。
 群馬県の「多胡碑」に書かれている「羊太夫」(その地の領主)が奈良の都へ行く時立ち寄った屋敷がこの地にあった。羊太夫はこの地の人が平和に暮らせるよう火の神を祀ったので「羊神社」と呼ばれるようになった

◇多胡碑?
 この由緒に出てくる「多胡碑」は高崎市吉井町にある日本三古碑の一つで、8世紀後半に建てられ国の特別史跡に指定されている。
 碑文には「………上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の3郡の中から300戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年(711)3月9日甲寅に宣べられた。………」と刻まれている。
 郡を新設し、支配者を決めたお触れを刻んだ物だ。この碑を地元の人は「羊さま」と呼んでいる。



   羊太夫の伝説は、群馬から埼玉の秩父にかけて残され、いろいろなバリエーションがあるが、非常な俊足で脇羽の生えた若者と権田栗毛という名馬を持ち、一日で奈良の都まで往復していたが、後に謀叛の疑いで朝廷により討伐されたという内容だ。多胡とはたくさんの外国人を意味し、先進技術を持って日本に帰化してきた人たちだ。秩父で銅が採掘され、それにより日本最初の通貨和同開珎が造られたが、この採掘と関係があるとする意見もある。

◇羊太夫はなぜ尾張へ?
 群馬県の羊太夫がなぜ尾張のこの地に立ち寄ったのだろうか。
 これについて多胡碑記念館長が『続日本紀』を調べ、和銅2年(709)から上野の国司だった平群の朝臣安麻呂が7年(714)に尾張の国司に転任しているので、訪ねて来たのではないかと指摘されている。

 多胡碑のある吉井町にも「羊神社」がある。こちらは天児屋根命(あめのこやねのみこと)、多胡羊太夫藤原宗勝が祭神で、創建は多胡一族が落ち延びて多胡新田を開発した後の 延宝年間(1673~81) とのことである。

 もし、はるか古代の官僚が、遠く離れた群馬県から愛知県に転任になったことが羊神社創建のきっかけになったとすれば、他には類のないユニークな神社ということになる。



 2026/02/14