群馬から羊太夫が来訪?
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この神社には、次ぎのようなおもしろい由緒が伝わっている。
群馬県の「多胡碑」に書かれている「羊太夫」(その地の領主)が奈良の都へ行く時立ち寄った屋敷がこの地にあった。羊太夫はこの地の人が平和に暮らせるよう火の神を祀ったので「羊神社」と呼ばれるようになった
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◇多胡碑?
この由緒に出てくる「多胡碑」は高崎市吉井町にある日本三古碑の一つで、8世紀後半に建てられ国の特別史跡に指定されている。
碑文には「………上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の3郡の中から300戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年(711)3月9日甲寅に宣べられた。………」と刻まれている。
郡を新設し、支配者を決めたお触れを刻んだ物だ。この碑を地元の人は「羊さま」と呼んでいる。
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羊太夫の伝説は、群馬から埼玉の秩父にかけて残され、いろいろなバリエーションがあるが、非常な俊足で脇羽の生えた若者と権田栗毛という名馬を持ち、一日で奈良の都まで往復していたが、後に謀叛の疑いで朝廷により討伐されたという内容だ。多胡とはたくさんの外国人を意味し、先進技術を持って日本に帰化してきた人たちだ。秩父で銅が採掘され、それにより日本最初の通貨和同開珎が造られたが、この採掘と関係があるとする意見もある。
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◇羊太夫はなぜ尾張へ?
群馬県の羊太夫がなぜ尾張のこの地に立ち寄ったのだろうか。
これについて多胡碑記念館長が『続日本紀』を調べ、和銅2年(709)から上野の国司だった平群の朝臣安麻呂が7年(714)に尾張の国司に転任しているので、訪ねて来たのではないかと指摘されている。
多胡碑のある吉井町にも「羊神社」がある。こちらは天児屋根命(あめのこやねのみこと)、多胡羊太夫藤原宗勝が祭神で、創建は多胡一族が落ち延びて多胡新田を開発した後の
延宝年間(1673~81) とのことである。
もし、はるか古代の官僚が、遠く離れた群馬県から愛知県に転任になったことが羊神社創建のきっかけになったとすれば、他には類のないユニークな神社ということになる。
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