庄内川堤防下に鎮座する東八龍社は、味鋺に二つある八龍社の一つだ。味鋺神社の境外末社で、祭礼の時にはここまで神輿渡御が行われるという古社である。 |
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「私は味鋺に移ってきてから30年になります。今年、80才になりますが、毎日、家でじっとしているのも辛いので、ここにきて境内の草とりをしています。見てください。そこにも犬の糞がすててあるでしょう。庄内川の堤防からの細道が神社の境内を通り抜けることができるようになっているので、ここで犬を放して遊ばせるのです。私の日課は犬の糞を始末することから始まります」 背すじがぴんとしている。口調もよどみなく歯切れがよい。なかなか元気のよい老人だ。東八龍社に写真を撮りにやってきて、逢った老人だ。 |
「ここを神社だと思っている人が、はたして何人いるでしょう。庄内川の堤防からおりて町へ出ることができる便利な通路だと思っているのです。何人もの人が庄内川の堤防をおりて、境内に入ってくるでしょう。しかし、ひとりとして拝んでゆく人はありません。ここは神社ではなくて、通り抜けの道でしかないのです。 あまり情けないので、東八龍社のことも知りたいと思って、古くから土地にいる人に聞いてもわかりません。そこにある碑には東龍神社とある。しかし、この神社は東八龍社と呼んでいる。どちらが本当でしょう」 毎日掃除をしている神社の名前すら正式には、どちらかわからない。土地の人に聞いてもわからない。通り抜ける人はいても神社に参拝する人はいない。そんな神社の状況が老人には腹立たしくてならないようだ。 |
『名古屋市楠町誌』は東八龍社のことを、次のように紹介している。 「祭神は宇麻志遅命(うましまじのみこと)、高龍神をまつり味鋺神社境外末社である。 鎮座年代は詳でないが、延喜式神名帳に、山田郡味鋺神社の一末社として現在に至っている。毎年味鋺神社祭礼に古習として神輿渡御、流鏑馬(やぶさめ)等が行われるが、その時渡御の御旅御駐輦(ちゅうれん)所である。」 |
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『名古屋市楠町誌』は昭和32年(1957)に刊行されたものだ。 東八龍社の写真が載っている。茂った樹木のあいだに神社の拝殿が写っている。その前に石標がある。 現在、境内には拝殿はない。老人のいわれた石標と本殿だけが残っている。60年近い年月は、味鋺の地の様相も、この神社のたたずまいもすっかり変えてしまった。東八龍社は味鋺神社の境外末社で、祭神は味鋺神社と同じ宇麻志遅命だ。宇麻志遅命は物部氏の祖神である。現在は通り抜けの神社となっている東八龍社は来歴のある古い神社だ。 |
『名古屋市楠町誌』 |
東龍神社と石標に刻んであるのは、同じ味鋺に龍神社が2つあるからだ。娑羯羅(しゃから)、優鉢羅(うばつら)など護法の八大龍神をまつった神社が西味鋺にもあり、その神社は西八龍社とよばれて西龍神社と刻んだ石標がある。西八龍社は雷除けの神社として名高い。 「時により過ぐれば民の歎きなり八大龍王雨やめたまへ」と源実朝が詠んだ歌がある。『金槐集』に載っている有名な歌だ。 この歌にあるように、各地にある八大龍王をまつった八龍社は雨乞いの神様である。 しかし、味鋺の八龍社は雨乞いではなく日乞いの神さまだ。絶対に雨乞いをしてはならないとされていた。 ある年、あまり日照りが続いて、水を田に取り入れることができなくなってしまった。 八龍社で、禁忌を破り雨乞いをした。雨が即座に降り始め、2日たっても3日たっても止まない。庄内川の水があふれ味鋺の地は水びたしになるという事件があった。 |
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「この神社は味鋺神社の末社なので、今でもお祭りには神輿が東八龍社まで渡御しますよ」 老人は、祭りの日の1一日だけが、味鋺神社からの神輿の行列でにぎやかになるといわれる。 老人の東八龍社に対する思いは強い。それは毎日神社にきて掃除をしているからだ。誰にいわれてすることでもない。自分から進んでしていることだ。だからこそ、神社に多くの人が参拝してほしいという願いが強いのであろう。 ※この項目は、故澤井鈴一氏が記述したものに、筆者が補正・追記。 |
2024/11/22 |
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