天平年間の創建
護 国 院

 立派な山門がそびえる護国院は、はるか昔 天平時代に行基が創建したと伝えられている古刹である。きれいに整えられた境内には、地域の歴史を伝えるさまざまなものが残されている。

    栄枯盛衰を乗り越えて   魅力あふれる境内



栄枯盛衰を乗り越えて
 味鏡(みきょう)山天永寺護国院は、天平年間(729~49)に僧行基が薬師寺を創建したのが始まりと言われ、その頃は法相宗であった。かつては味鋺神社の神宮寺であった寺である。
 行基がこの地に来たとき、村の北方にある鏡池(農業用溜池だったが、昭和14年頃に田に変わった)から金像の薬師仏が出てきたので、行基自ら薬師座像を彫りその体内に池から出た仏を納めて本尊として祀ったという。

 その後、永い年月を経るなかで天暦2年(948)の水害などで衰退し、わずかに仮の草堂で本尊が祀られているという状態になった。


本尊の薬師如来座像
『西春日井郡誌』

 天永年間(1110~3)に、その廃絶を悲しんで僧西弥(さいみ)が再建し中興した。
 時の天皇(鳥羽天皇)が天永寺の額を下賜、併せて安食(あじき、現:春日井市西南部・名古屋市北区あたり)と柏井(現:春日井市勝川駅あたり)を寺領にされ、七堂伽藍と12の僧坊がある立派な寺となった。この時、天永寺護国院に改称し、現在の真言宗に変わった。

 しかし、戦国時代になると寺領も横領され、文明11年(1479)には火災でほとんどが焼けるなどして再び衰退した。
 天正9年(1581)になり土地の有力者たちが再興した。将軍家光(在位:1623~51)の時代に本堂を再建し、天明年間(1781~9)に庫裡などの堂宇が再建された。

◇味鋺と味鏡
 『尾張志』に、次の主旨の事が書かれている。
 「味鋺の字を中古より味鏡と誤って書くようになった。護国院の山号を味鏡山というので、諸書が誤って記すようになったのであろう。源明公〔9代藩主宗睦(むねちか)〕が、延喜式神名帳等に記されているとおり、味鋺の字にもどすように命ぜられた。」
 護国院の山号、味鏡山があまりにも名高かったために、地名までもが味鏡になったのだ。本来の味鋺の字に復したのは『尾張徇行記』によると享和3年(1803)からである。なお、徇行記は山号を「味鏡山」ではなく「味鋺山」としている。

◇文化財
 鎌倉時代に描かれた「絹本著色千手観音二十八部衆像」が、平成8年(1996)に重要文化財に指定された。
 また、室町時代に描かれた「絹本著色尊勝種子曼茶羅図」「絹本著色仏眼曼荼羅図」も、平成8年(1996)に名古屋市指定文化財になった。



魅力あふれる境内
◇山 門
 山門は2階建になっており、2階には高欄が巡らされた立派なものだ。
 珍しいのは門を守っている像。普通は仁王が立っているが、ここでは四天王が山門の表に2体、裏に2体立って目を光らせている。他の寺ではほとんど見かけないものである。


山門の表側


山門の裏側

◇不動堂
 本堂の右手には木造の不動堂がある。これは以前の本堂だ。中には脇侍の不動明王が祀られている。
 正面の格天井に絵がたくさん嵌められている。今では古びているが、かつては極彩色の華やかなものであったろう。これも他では見ることができないものである。





◇古墳の石棺
 参道左の祠に、岩屋堂古墳(現:廃滅)から出土した石棺が納められている。
 岩屋堂古墳は早い時期に滅失したようだがこの寺との縁は深く、江戸時代末期に編纂された『尾張名所図会』には護国院に付属する岩屋堂があり、十一面観音が本尊で尾張三十三観音の一つと書かれている。
 また、1800年前後に編纂された『尾張徇行記』には「護国院が所蔵している古鏡と古剣は元文4年(1739)に岩窟堂(岩屋堂)の跡地から発掘されたもの」と書かれている。また、岩屋堂にあった正観音像は編纂された頃には護国院へ移転していたとのことである。



『味鋺村絵図』

◇道標の石仏
 山門近くに、無縁仏が幾体も祀られた山がある。そのなかには、元禄の年号の入った古仏もある。
 山の下にある頬に手をあてた観音像は上部が壊れセメントで補修されているが「川道」の文字が残り、「勝川道」の案内をする道標であった。
 また別に「右勝川莊 左小牧莊」と彫られた石仏もある。

勝川を案内する石仏


右勝川莊 左小牧莊を
案内する石仏





 2024/11/18