物部氏の先祖を祀る
味鋺神社
 味鋺神社ははるか古代からの神社で、かつては祭礼の時に流鏑馬が行われた。境内には稲置街道が通っていた清正橋が移設保存され、地域の歴史を伝えている。

    古代からの神社   流鏑馬が評判の祭礼   境内に残る歴史



古代からの神社
 味鋺神社は『延喜式神名帳』に記されている式内社で、旧社格は郷社である。

 祭神は宇麻志麻治(うましまじ)命と味饒田(まじにぎた)命である。宇麻志麻治命は神武天皇期の武臣で、近衛の将として禁裏守護にあたり、物部氏の祖先であると伝えられている。味饒田命はその子である。
 水害や戦乱などで記録が失われ創建の時期や由来は不明だが、二子山古墳が宇麻志麻遲命の墓で墳丘に物部神社(現:白山神社に遷座)があり、物部氏がこの地域に大きな勢力を持っていたと考えられるので古代からの神社であろう。


『尾張名所図会』
 江戸時代には一般に六所明神と呼ばれていた。祭神は大日霎(おおひるめ)尊(天照大御神)・日本武尊・建角見(たけつぬみ)命・天児屋根(あめのこやね)命・武甕槌(たけみかづち)命・譽田(ほむた)天皇の6柱であった。
 『尾張名所図会』には『塩尻』からの引用として「あちらこちらの神社は神様の数を神社の名称にしている。この神社の神職に聞くと六柱の神を祀っているからと言う。神社の正式名称を忘れ六所明神とだけ称している」と書かれている。また蓬莱宮(熱田神宮)の末社であった。

 拝殿の左側に境内社がたくさん並んでいる。
 熱田社(日本武尊)、神明社(天照大御神)、日神社(天照大御神)、金比羅社(大物主命)、天神社(味鋺神社祭神の御子)、山神社(大山祇神)、斎宮社(倭姫命)、稲荷社(稲荷神)、秋葉社(迦具土命)、洲原社(菊理媛命)、津島社(須佐之男命)の11社である。


蕃塀と拝殿


拝殿に見事な彫刻
上段:鯉の滝登り
中段:馬
下段:龍


ずらりと並ぶ境内社



流鏑馬が評判の祭礼
 毎年10月の大祭では神輿の渡御が行われた。昔は宇麻志麻遲命の陵墓と言われる二子山古墳まで渡御したが、後に東八龍社までに変わった。
 榊、獅子頭、紅白数十流の旗、鉾、弓等を持って行列を作り、子供の楽人が笛や太鼓で演奏しながら随行し、その後ろに神輿が続いた。神輿の後には、陣羽織を着た武者姿の若者が数人と裃を着た者が一人供奉した。その様子は『尾張年中行事絵抄』に描かれている。渡御が終わると流鏑馬が行われた。


『尾張年中行事絵抄』
◇流鏑馬(やぶさめ)
 本殿の横に平成22年(2010)に建てられた流鏑馬の像がある。五穀豊穣に感謝し豊作の年に行われた神事だ。「楠町誌」によると寛治7年(1093)に競馬の神事を行ったのが始まりとのことである。
 陣羽織に盔(とっぱい)頭巾(烏帽子の後部に垂れがついた頭巾)で、後の時代には鎧兜で身を固めた若者が、神社から南の庄内川まで馬で駆けつつ矢を空に向けて射る。この矢を拾った者は疫病にかからないといわれ多くの人が集まった。

 祭の1週間前に神前でお神籤を引いて大将になる3名を選ぶ。3名は別家に篭もり斎戒沐浴して3日間乗馬の練習をし、4日目から手綱を持たず弓を射る練習をし、6日目は甲冑を着けて馬に乗る練習をした。
 祭の当日は大将は甲冑姿で乗馬し弓と2本の矢を持ち、それぞれ家来として先払2名、馬印1名、幟持2名、塩ふり2人(子ども)、花ふり2名(子ども)、馬方2人の合計11名を従えて繰り込んだという。
 古式ゆかしい行事だが昭和13年(1938)を最後に行われなくなった。


境内の流鏑馬像


『尾張年中行事絵抄』

昭和11年の流鏑馬


境内に残る歴史
◇清正橋
 社務所の南側に空池があり橋が架かっている。清正橋だ。清正橋は、加藤清正が名古屋城を築城する時に、小牧の岩崎山から大石を運搬するために架けた橋だと伝えられているものだ。

 この石橋は元は神社の西南100mほどの所の水路に架かり、稲置街道が通っていた。昭和53年に、味鋺神社に移したものである。
 池の中央に杭石(橋脚)が3本建てられ、その上に桁石が架けられている。路面となる石は幅は30~50㎝で、長さは約1.5mほどのものが8枚だ。石には矢穴の跡が見られる。
 『尾張徇行記』には「石橋長一丈巾一丈一尺」とあり、『名古屋市楠町誌』の稲置街道に架かっていた時の調査では12枚の石が敷かれ2.6mの巾だったので、昔は長さは同じだが幅はこれより広い橋であった。

 名古屋築城時には小牧の岩崎山からたくさんの石が運ばれた。そのルートの一つがこの橋だった。

 一説には、岩崎山の石ではなく、志段味産の花崗岩であるという。
 名古屋城築城に使われた膨大な量の石材は、ありとあらゆるところから集められた。味鋺、味美には数多くの古墳が残っていた。古墳の石槨には、志段味産の花崗岩が使われている。その石が清正橋に使われたのではないかという説である。


現在の清正橋


かつての清正橋(昭和30年頃)


清正橋の旧位置 大正9年 1/25000

◇戦捷紀念碑と従軍者碑
 日清戦争(明治27~8年)の勝利を記念して、35年(1902)8月に出征軍人と在郷軍人が建立した。脇に在郷軍人会が建立した、従軍者名を刻んだ碑が添えられている。
 碑が建っている築山は、元は現在忠魂社があるオチン山にあったものを岡田氏が寄贈したという。






 2024/11/14