かつては古墳の集中地
『名古屋市楠町誌』

味鋺・味美古墳群
 味美から味鋺にかけてかつては180基あまりの古墳があったといわれ、5~6世紀頃は大きな勢力を持つ豪族がいたことが覗われる。
 ほとんどは姿を消してしまったが、今もいくつかの大きな古墳が名残を伝えている。

    二子山古墳   御旅所古墳   白山神社古墳
    春日山古墳   白山藪古墳  



二子山古墳
 墳長94mの前方後円墳で盾形の周濠が巡らされ、高さは前方部・後円部ともに8m、昭和11年に国の史跡に指定されている。
 この古墳は尾張地方では熱田の断夫山古墳(墳長150m)に次ぐ2番目に大きな古墳であり、形も断夫山古墳とほとんど同じで約6割に縮小するとほぼ重なる。このため、この古墳を築造した勢力と熱田など南部が勢力圏だった尾張氏の間には交流があり、後に尾張氏が統合したと考えられている。

 平成3~6年(1991~4)に発掘調査が行われ、現在も残る周濠の外側にさらに溝があることが確認された。溝からは円筒埴輪のほか、馬や家などの象形埴輪や須恵器の器などが見つかった。それらの出土品から6世紀前期の古墳と推定された。
 使われた埴輪は、春日井市東山町にある下原古窯群(東名高速 小牧JCTの東南)で見つかった埴輪と同じで、八田川やその支流の生地川を利用して運ばれたと推定されている。


 『西春日井郡誌』は「俗に宇麻志麻遲命の古墳ならんといふ」と記録している。
 宇麻志麻遲(うましまぢ)命の表記は『古事記』のもので、『日本書紀』では「可美真手(うましまで)命」、『先代旧事本紀』では「味間見(うましまみ)命」になっている。物部氏・穂積氏などの祖先で、『先代旧事本紀』では神武天皇の東征に従事し、尾張氏の祖である天香山(あめのかぐやま)命は異母兄とのことだ。
 物部神社(島根県大田市)の社伝では、美濃国と越(こし)国(現:福井・石川・富山・新潟・山形県の一部)を平定し石見国で亡くなり、物部神社背後の八百山に埋葬したという。
 二子山古墳にも墳丘の上に物部神社があったが、万治2年(1659)に白山神社に遷座した。なお、味鋺神社の主祭神は宇麻志麻遲命である。

 現在、古墳とその周辺地域は二子山公園に整備され、あちらこちらに埴輪が置かれている。一見すると出土品のレプリカのように見えるが、毎年10月にこの公園で行われる「ハニワまつり」の時に参加者が作り野焼きしたものを置いている。このためネクタイを締めた像や、制作年を入れた像もある。


公園入口 奥の木立が古墳



奥の木立が古墳

周濠部分


ハニワまつりで作られた埴輪


園内のトイレも埴輪風


園内のハニワの館では、
出土埴輪や古墳の説明を展示



御旅所古墳
  二子山古墳と共に二子山公園の中にある。円墳で直径は31m、高さは2.9m。寛延年間(1748~51)以降、白山神社の祭礼の時に相宮があるここまで神輿渡御が行われていることが名の由来である。昭和58年(1983)に県指定文化財になっている。

 埴輪が出土し、5世紀末期~6世紀初期、白山神社古墳より後に築造されたと推定されている。
 墳頂には小さな社(白山神社の相宮)があり、白山神社と同じ5柱の神が祀られている。


古墳の全景


古墳の登り口


墳丘上にはお社がある


白山神社古墳
 二子山公園に隣接し、墳頂に白山神社が鎮座する前方後円墳である。周濠を巡らし、墳長は84m、後円部の高さは6m。昭和58年(1983)に県指定文化財になっている。

 平成19年度に発掘調査が行われ、埴輪などが出土した。5世紀末期~6世紀初期の築造と推定されている。


古墳は神社の境内


墳丘の上は白山神社


立派な社殿が建つ



春日山古墳
 白山神社の300m西にある墳長74mの前方後円墳である。
 昔は白山神社の神輿渡御が行われていたが、寛延年間(1748~51)に御旅所古墳への渡御に変わった。

 保存状態が悪く史跡等に指定されておらず、現在は春日山公園として整備され遊具などが設置されている。



◇ 道 標
 公園の北東隅に供養塔を兼ねた道標が建っている。元は稲置街道(古墳の一本東の道)に建っていたと考えられる。

 「三國傳来 釈迦如来」「爲釈了思信士 妙順信女 江戸桜田和泉町 尾張屋松五郎」「是より十八丁 常安寺」「天保7年丙申二月十五日」と彫られている。約2㎞先の常安寺を案内する標石で、1836年に建てられた。

 常安寺は豊山町役場の南西すぐの所にある。この寺は、弘仁3年(812)に現在の名古屋空港の場所に空海が創建した観音寺が始まりである。しかし、保元・平治年間(1156~60)頃、兵火で焼失して衰退した。その後、応永元年(1394)にこの地域の領主であった溝口氏が現在地で再興したという。
 本尊は三国伝来と言われる釋迦・阿難・迦葉の3霊像で、天竺(現:インド)の仏師毘首羯摩天(びしゅかつまてん)の作と伝えられている。
 なお、金・銅製の釈迦如来で高さ13.5㎝の「天上天下唯我独尊」像は鎌倉時代の作とされ、昭和29年に県の指定文化財になっている。



道 標


常安寺 『尾張名所図会』
◇ 御嶽神社
 〇「刀利天狗(とうりてんぐ)」碑
 墳丘の東寄りの所に「刀利天狗」と刻まれた石が建っている。

 刀利天狗とは一体何だろうか。
 「怪異・妖怪データベース」には『長野県史』の要約として次のように記載している。
 「大昔、刀利天狗は日本の真ん中に富士山より高い山が欲しいと考えて、富士山の頭をちぎって御嶽山の頂に乗せようとした。ところが休んでいるうちに朝になってそのまま逃げ出したので、ちぎった富士山の頭は三笠山になった。」
 三笠山は御嶽山の7合目にあたり、現在は御嶽スカイラインの終点になっている所である。

 御嶽神社のホームページには刀利天について次のように書かれている。
 「三笠山神社
    御祭神  豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
    別 名  三笠山刀利天(みかさやまとうりてん)



刀利天狗碑

 御嶽山7合目。御嶽山を間近に臨む三笠山頂上に鎮座し、道中安全、交通安全の御神徳があります。
 普寛行者が、この地に刀利天(豊斟渟尊)を勧請しました。刀利天は火と竈の神として信仰されている三宝大荒神と同体とも、帝釈天と同体ともいわれています。……中略……三笠山からがいよいよ本山といわれ、下界の日々の生活の反省と登拝への決意を新たにする場所でもあります。」

 ここに石碑を建てた経緯が『春日井の歴史ウォッチング』(著:伊藤浩)に、次のように書かれている。
「今から一四〇年余り前のこと、このあたりは味鋺原新田と呼んでいました。この村に又七という熱心な御嶽教の信者が住んでいました。又七は、毎日のように近くの白山神社前のよし池で身を清めて修業をつみ、村の御嶽信者の先達となって、度々御嶽山に登拝しました。……
 ようやく七合目にある三笠山にたどりつきました。すると、そのとき俄かに、横なぐりの強い風が吹きはじめ、たたきつけるように雨が激しく降りはじめました。ゴゥーゴゥーというすさまじい山鳴りに村人たちは恐ろしくなってふるえあがってしまいました。みんなは暴風雨に吹きとばされそうになりながら、ようやくのことで、先達に続いて刀利天宮の拝殿の前にひざまずきました。村人は先達に励まされて、もう、無我夢中で心経を唱えました。すると、いままでうろたえさわいでいた人々も不思議に心が静まり、やがてあらしが小止みになって来ました。村人はなんとか無事に、山小屋までたどり着くことができました。
 村人は、命を助けて下さったというので、刀利天狗を信心することこのうえなく、山を降りるとき、刀利天狗の御分神を受けて村に帰りました。そして、氏神さまのあった春日山にその刀利天狗を祭り、村中の人が深く信仰するようになりました。」

 
○御嶽神社の石碑群
 古墳の西端に御嶽教関係のたくさんの石碑や社が建っている。
 右端の社には「神変大菩薩」の額が掲げられている。修験道の開祖役行者を祀ってあるのだ。「御嶽神社」「八海山」と刻んだ石や、「白川大権現」「摩利支天」などの神名、「覚作霊神」のような先達名、合わせて10個もの石碑や社がある。



◇ 春日山弁財天
 古墳の南西山麓に祀られ、脇に平成7年(1995)建立の縁起を書いた石碑が添えられている。
 江戸時代後期に、護国院境内に祀られていた弁財天をこの場所へ遷座した。しかし参拝に不便なので、200mほど南西の場所へ遷座し、140年にわたり人々の信仰を集めてきたが、再び元の場所へ再遷座したとのことである。





白山藪古墳(戦後に消滅)

 あじま保育園が建つ場所は、かつて白山藪古墳だった所である。
 白山藪古墳は白山神社の旧地で、万治2年(1659)までここに神社があったので「白山」、一面藪に覆われていたので「藪」古墳と呼ばれた。

 昭和25年(1950)9月、神社の近くに住む人が家の普請をするために薮の中に入って、壁土を得ようとした。薮を掘り赤土を運んでいた。掘り進めていると土師(はじ)質(素焼の土器)の瓦状の板数十枚を重ねたものが出てきた。これが端緒となり発掘調査が行われた。



全景(西側より)
『名古屋市楠町誌』

 発掘は9月11日から29日までの19日間、南山大学の考古学教室の手で行われた。
 その結果は『新修名古屋市史』(第一巻)によると次のとおりである。
 「庄内川右岸の自然堤防上に立地する古墳で、昭和25年の調査時に、直径20メートル、高さ4メートルほどの墳丘が残っていた。その西方約10メートルの場所に、高さ1.5メートルほどの土の高まりがあったため、前方後円墳とする意見がある。
 埋葬施設は、長さ2.8メートル、幅0.6メートルの木棺を粘土でおおった粘土槨で、その両端に、窖窯(あながま、斜面を利用して築いた地下式の窯)によらない有黒斑焼成の塼(せん、土を焼いて方形または長方形の平板としたもの)を積んで壁をつくっていた。木棺内からは、重ねて置かれた三角縁神獣鏡、変形四獣鏡、内行花文(ないこうかもん)鏡と、一連の状態の管玉(くだたま)・勾玉(まがたま)・切子玉・棗玉(なつめたま)・小玉などが出土した。さらに粘土槨の外には、同様の塼(せん)で設けられた長さ3メートル、幅0.3メートルの副室があり、鉄製の直刀・剣・鏃が出土した。
 4世紀末から5世紀初頭の古墳と考えられているが、甕または壺の底部付近とみられる「須恵器片」が排水施設で出土しているため、時期の比定には流動的な要素が残る。」

 三角縁神獣鏡が味鋺の白山薮古墳から発掘された。神獣鏡のほかにも管玉・勾玉・切子玉などが発掘されている。これらの玉類は首飾りなど族長の身体を飾るものだ。
 相当有力な族長が、味鋺の地に存在していたことが白山薮古墳の発掘品によってわかる。では、その族長とは誰であろうか。
 『名古屋市楠町誌』は次のような説をかかげている。
 「刀剣や鉾などの武器類が20余点も出土している処を見ると、物部氏関係の塚とみたいのである。ことに味鋺神社の祭神が可美真手命(うましまでのみこと)であるとせられることも注意をひくのである。こういうことから考えると、この味鋺の原の百塚と称するのも、物部氏関係の氏族の蟠踞していた遺跡であると考えたいのである。物部天神や味鋺神社はおそらく尾張における物部氏最初の氏神であったであろう。」

全て『名古屋市楠町誌』


粘土槨を覆う赤土
棺が腐朽し陥没




鏡と玉(下の筒状)


副葬品配置図


直刀





 2024/11/09
         
          (味鋺)       (味美)