三日月塚のある
了 義 院

 了義院は大きな法華宝塔が建ち、寺なのに入口に鳥居が建っている。妙見菩薩を祀っているからだ。境内には江戸時代に建立された三日月塚がある。しかし、その姿は無残だ。太平洋戦争の空襲で破砕され、残された破片をモルタルでつないで再生したものなのだ。鳥居の下部や釈迦如来石像なども、爆弾の破片で傷ついた跡が残っている。

    妙見菩薩を祀る 了義院   門前の宝塔   三日月塚
    入口に鳥居    



妙見菩薩を祀る 了義院

 妙見山了義院は日蓮宗の寺である。
 『東大曽根町誌』では、
 元は清洲にあり冷谷山成就院という真言宗の寺であった。慶長(1596~1615)に正万寺町(勝鬘寺町、伏見通の一本西の南北道路で五條橋と中橋の区間)に移転し、その後、現在地へ再移転した。
 安永7年(1778)に廃寺になった。しかし、笹屋伝兵衛の発願で天明4年(1784)に大光寺(東片端交差点東)が譲り受けて僧日澍が再興して日蓮宗に改宗し、6年(1786)に寺の名も現在のものに改称している。
 その後、無住の寺になり建物が破損してきたので大光寺が修復した。


『尾張名陽図会』

 なお、史料により現在地移転以前の所在地は納屋橋西、あるいは大津町・朝日町(大津町の南)とし、移転年代や僧の名もさまざまである。また、『尾張名陽図会』では、安永年中(1772~81)に僧日峯が能勢妙見山(大阪府)の妙見菩薩像を写した像を仏師に作らせて安置し、日蓮宗の了義院として再興したとしており、『尾張年中行事絵抄』には毎年2月と8月の1日に妙見祭が行われると記録している。



門前の宝塔

 門前に建つ大きな宝塔は、『東大曽根町誌』によると寛永9年(1632)建立のものである。
 この寺は元は真言宗で天明4年(1784)あるいは安永年中(1772~81)に日蓮宗に変わっている。宝塔はそれより約150年ほど古いので、他所から移設されたのではと考えられるが詳細は不明である。
 左側面に「妙見山了義院」の文字があるので、移設時に手を加えたようである。
 なお、『尾張名陽図会』(著者:高力猿猴庵、1756~1831)の絵には宝塔は描かれていない。



三日月塚
 「有とあるたとへにも似ず三日の月」という、芭蕉の句を刻んだ三日月塚が境内にある。芭蕉が貞亨5年(1688)の秋に、このあたりを訪問した時に詠んだ句である。

 芭蕉の50回忌にあたる寛保3年(1743)に、五条坊木児が建立した。五条坊木児は京町に住んでいた商人で、俗称は御糸屋彦六、各務支考門下の俳人である。

 碑が建てられて35年後の安永7年(1778)に、了義院(当時は成就院)はいったん廃寺になった。
 その頃、蕉風復興に盡力していた加藤(久村)暁台がこの地を訪問した。碑の周りは稗や粟が植えられた畑に変わっていて、三日月の碑は隅に追いやられ後ろ向きに置かれている状態だった。この様子を次の句に詠んでいる。
    ありとだに形ばかりなる三日の月
    蜀黍(もろこし)の穂首になびけ三日の月

 句碑は、昭和20年(1945)の空襲で、大きく破損してしまった。焼跡から残石をひろい集めて、モルタルで継ぎあわせて句碑に仕立てたものが現在建っている。
 碑の上部中央に大きく「芭蕉翁」、その左に句が彫られているが、一行目は数文字見られるが判読できず、二行目は「似(にず)」、三行目は上下が破損し「三日の」部分が残るが「三」は上が破損し「一」になっている。下部に「寛保三癸亥 □月十二日 當五十回忌 於造立之」とあり、判読できない一字は、芭蕉の命日は陰暦の十月十二日なので「十」であろう。
 句の一部が欠けたりしているので、三日月塚復原会により昭和24年10月に新しい句碑が横に建立された。
空襲の痕跡は碑だけではなく、鳥居や境内に座す釈迦如来石像などにも残っている。

◇芭蕉堂
 また昔は境内に芭蕉堂も建てられ、芭蕉像が安置されていた。『葎の滴』に芭蕉像が盗まれたので新しく作って再設置した話が載っている。安政6年(1859)11月に知人の古屋長太郎から聞いた話として
 「了義院の芭蕉堂にある木像は、翁が亡くなってすぐの頃に作られたもので古い像だった。藩士で俳句好きの大熊兔農(とのう)が寄附したものだが、いつの間にか盗まれてしまった。噂では荒井村(現:南区)の俳句好き永井松右衛門が盗んで家に置いているとのことだ。こんなことがあったので大熊は最近有志と相談して新しい木像を作り再びお堂に納めた。」

 『東大曽根町誌』には、句碑の背後に芭蕉堂があり、位牌と像が安置されていると書かれており、昭和16年(1941)頃はまだ存在していたが、空襲で失われたようである。


元の句碑
(空襲で破砕されたものを再生)


戦後に設置した新しい句碑



入口に鳥居
 了義院は門を入ると鳥居が建ち、境内には狛犬も置かれている。神社のような姿だが、これは妙見菩薩を祀っているからだ。

 妙見菩薩は北極星や北斗七星を神格化したもので、仏教が中国に伝わったときに道教などの影響を受けて生まれた菩薩である。神仏習合の時代は妙見さまとして広く信仰を集めたが、明治の神仏分離で寺として残った所はそのまま妙見菩薩として祀り、神社になったところは、北斗七星の神とされる天之御中主(あめのみなかぬし)神として祀るようになった。


 このような歴史から寺でも妙見菩薩を祀るところでは鳥居が建っていることがある。妙見信仰の中心地である能勢妙見山(大阪府)は真如寺という日蓮宗の寺だが鳥居が建ち、岡山の西崎妙見教会(日蓮宗)なども同様である。
 了義院は『尾張名陽図会』に描かれた風景では鳥居がなく、大正8年(1919)に新たに建てられたものである。




 2025/06/26