寺号は家康の息子の法名
高 岳 院

 地下鉄駅に高岳(たかおか)駅がある。駅名の元になったのがすぐ北に鎮座する高岳(こうがく)院という寺だ。家康の息子の菩提を弔うために甲斐から清須へ遷座し、さらに名古屋開府とともに現在地へ移転してきた由緒ある寺である。

    家康の息子の菩提寺   著名な檀家



家康の息子の菩提寺
 持名山菩提心寺高岳院は浄土宗鎮西派の寺である。

◇寺号は家康の子の法名
 元は現在の山梨県韮崎市(平岩親吉の旧領)にあった寺で、教安寺という名であった。
 家康の8男である仙千代は、平岩親吉の養子になっていたが6歳の時に亡くなった。その菩提を弔うため、家康が慶長13年(1608)に平岩親吉に命じて清須へ移転させた。この時、寺の名は仙千代の法名である高岳院に改号された。その後、清須越しの時に現在地へ移転した。

◇昔は、広い境内で六つの塔頭
 江戸時代の境内は7,371坪という広大なもので、寺領は100石であった。塔頭は、助正院、淨峯院、賀月院、西趣院、養行院(元:松寿院)、相福院の6院があったが、大正期には助正院、淨峯院、賀月院の3院が残るだけで、境内も849坪に減っている。戦災復興事業で境内地はさらに減り、塔頭も姿を消した(助正院は千種区にあり)。

◇高い格式
 家康の息子の菩提寺なので、格式は非常に高い。毎年1月6日に御目見得を許された寺社は藩主へお礼の挨拶に登城する。明和6年(1769)頃の記録では4つのランクに分かれており、一番上が「御奥独礼」で定光寺など5寺、その次が「御表独礼」で建中寺など10寺だが、このなかに高岳院が含まれており単独で挨拶する。それより下は「於鴈間並居御礼」「於御広間並居御礼」で、集団での挨拶になる。

◇昔は熱田沖まで見えた
 寺の北には庭があり、小高い土盛りの上に潮見山(塩見山)という亭が設けられていた。「尾張名陽図会」によると、毎年2月16日にここに登って北東の景色を楽しんだ。
 寺の山号は持名山だが、潮見山という別の名もあった。昔はここに登って南の方を見ると熱田沖まで見えたからこの名が付いたが、その後、南に色々な樹が茂って見えなくなったとのことである。


『尾張名所図会』


高岳院 『尾張名陽図会』


高岳院後園 塩見山 『尾張名陽図会』


『尾府全図』 明治2年



著名な檀家
 この寺の檀家には著名人がいる。

◇通し矢の星野茂則
 星野茂則(勘左衞門)は、弓術の名人として知られ、京都三十三間堂での通し矢で、当時の新記録を出した人物だ。寛文2年(1662)に一昼夜で10,025本の矢を射て6,666本が通り、9年(1668)には10,542本を射て8,000本を通している。
 元禄9年(1696)5月6日に亡くなり、この寺に埋葬された。

◇『尾張名所図会』の小田切春江
 小田切春江(本名:忠近、通称:傳之丞)は多くの地誌を残し、昔の名古屋の姿や起きたことを今に伝えた人だ。『尾張名所図会』『名陽見聞図会』などがよく知られている。
 明治21年(1888)10月19日に亡くなり、この寺に葬られた。




 2025/07/04