2代藩主 光友が再興
片山八幡神社

 名古屋台地の北端に鎮座する片山八幡神社は、非常に古くからの歴史を持つ神社である。江戸時代初期には荒廃していたが、2代藩主の光友が再興し、太平洋戦争での焼失とその後の復興を経て現在に至った。境内は大きな樹が茂り、古社らしく落ち着いた雰囲気を漂わせている。


2代藩主 光友が再興
新しい氏神 神明社 境内の様子
延喜式神名帳を巡る争い



2代藩主 光友が再興

◇創建は古代
 片山八幡神社の創建は、『名古屋市史』では男山八幡(石清水八幡宮)を勧請したとの記録があるが時期は不明としている。社伝では継体天皇5年(西暦:511?)のとのことである。
 祭神は品陀別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)、天照大御神、菊理媛命(くくりひめのみこと)で、旧社格は明治5年(1872)に村社、昭和4年(1929)に県社へ昇格している。

◇2代藩主 光友が再興
 隠居して大曽根御殿に住んでいた2代藩主光友が荒廃している様子を見て、元禄8年(1695)に再興した。御神体を入れる御筥(みはこ)を、江戸の穴八幡(現:新宿区西早稲田)のものを模して作らせた。また神楽も山田郡斎を穴八幡宮に派遣して習得させ、それを神主に教えたとのことである。
 社領は藩から合力米15石が毎年支給され、大曽根村から田1反(300坪)と畑2反(600坪)が寄進された。

 昭和8年(1933)から本殿などの改築が進められたが太平洋戦争により焼失し、仮本殿を経て昭和34年(1959)に再建され、平成8年(1996)には大改修を行った。



『尾張名所図会』



新しい氏神 神  明  社
 光友により荒廃していた八幡社は立派な神社になった。氏子だった村人は喜んだのだろうか。

 『尾張神名帳集説訂考』に次のような記述がある。
 「大曽根八幡の地は旧は村落の産土神なりしに元禄中瑞龍院光友卿江戸より高田の穴八幡を爰に祀らせ給ひて慶徳氏を八幡宮の社人と定め本地仏の観音堂をも西の方へ引て関貞寺といふ禅刹に成しより以来村民は厳重なるに恐れて同所の天道社に産土神を更へたりといふ。」
 慶徳氏というのは尾張2代藩主光友の従弟である。伊勢の国からわざわざ呼んで八幡宮の社司とした。さらに八幡の本地仏である観音堂も移して関貞寺という禅寺にするなどして、村の産土神が光友のためにすっかり変わってしまった。あまりの荘重さに恐れをなし、大曽根の村人は産土神を天道社に変えてしまったのである。

 『尾張名陽図会』を見ると、八幡宮の西隣に朝日天道宮が描かれている。これが新しい氏神である。
 『名古屋市史』によると勧請の時期は不明だが、昔は大きな神社だったのが荒廃していた。慶長(1596~1615)頃に修造したが再び荒廃し比丘尼が管理していた。1600年代半ばに神職が置かれ、片山八幡神社が再興される少し前の貞享4年(1687)に又修造された。祭神は天照大御神である。

 片山八幡神社とは別の神社として存続し、明治になると村社に指定された神社である。しかし昭和32年(1957)に片山八幡神社に併合され姿を消した。
                              (故 澤井鈴一氏記述を補正)


『尾張名陽図会』


境内の様子

◇末社……6社
 本殿右手奥に小社が並んでいる。
 愛宕社(日本武尊)、金刀比羅社(大物主命)、青麻社(天之御中主神、天照大御神、月読神)、津島社〔素盞鳴尊、大穴牟遅(おおあなむち)命〕、秋葉社(火之迦具土神)、宗像社〔奥津島比売(おきつしまひめ〕命、市寸島比売(いちきしまひめ)命、多岐都比売(たきつひめ)命)の6社である。



◇谷龍神社
 境内北東に鎮座している。
 もとは徳川邸(現:徳川園など)に鎮座し、姫子龍神社と呼ばれていた。大正12年(1923)にこの地へ遷座した。
 祭神は闇淤加美神(くらおかみのかみ)で、雨をつかさどる竜神である。


◇御嶽神社遙拝所
 この地方で盛んな御嶽教の施設である。遙拝とは離れたところから拝むことなのでここには社殿はなく、御嶽山を拝むための施設である。

◇すべり山
 『尾張名陽図会』を見ると、境内の右端に「すべり山」「弘法大師行場」と書かれている。
 昔弘法大師が熱田に参籠され、100日の間、5の日ごと龍泉寺へ参詣された。その時、護摩を焚いて修業した場所で、草木が生えないので「すべり山」と呼ばれた。その時閼伽(あか、仏に供える水)を汲んだところが「閼伽塚」で、それが転じて「赤塚」の地名になったという。
 なお、「東大曽根町誌」(刊:昭和16年)には「今は全く破壊せられて昔を偲ぶ俤(おもかげ)がない」と書かれている。

◇瑞龍神輿
 平成8年(1996)から始まった神輿巡幸のため造られた。名前の「瑞龍」は、この神社を再興した2代藩主光友の戒名「瑞龍院殿」に依る。

◇城東耕地整理竣功之碑
 明治になり名古屋は城下町から近代的な産業都市へ変身していった。初期の頃は旧市街地のなかに工場などが建設されたが、だんだんと一杯になり周辺部に立地するようになってきた。
 当時の城北地域は田園地帯であったが、名古屋の繁栄を見て、自分たちの村も道路などの都市基盤を整備すれば繁華な場所へ変わると考え土地区画整理事業を始めた。当時はまだ都市計画法がなかったので、市街化に向けた事業だが耕地整理法を適用して事業を始めた。最初に設立されたのが城東耕地整理組合で大正元年(1912)の設立で、黒川以南の地域を事業区域にした。



 事業が進むにつれ当時盛んだった製糸・織物などの大きな工場が進出し、城北地域は繊維関連産業が集中する地域になった。施工区域の内、五区(六郷村・大曽根町)の事業完了を記念して昭和13年(1938)に建立された碑である。

 碑には次のように記されている(旧字は新字に改めた、□は判読不可)
 「我名古屋市之周辺田園相接梗称相連所以有田園都市之目也以是民間夙有耕地整理組合之組織焉城東耕地
  整理組合亦其一区域広□分十一区六郷村大曽根町則其第五区也而第五区之耕地整理以大正二年一月起工
  以昭和二年十一月竣工尓来市之発展顕著而人口日増加大正八年都市計画法制定於是乎竢都市計画路線之
  発展□土地利用法以為肆塵地□也道路井然家屋櫛比大改昔日之観矣此地者名古屋市之咽喉而貨物之集散
  四氏之出入□多将来之殷賑不可測也大正十一年編入名古屋市称東大曽根町城東耕地整理総工費九十五万
  余円内東大曽根町以屢変更設計工費要巨額総工費実十七万七千余円也其間関係諸氏軽私重公忘寝食日夜
  □□而後完成焉嗚呼此挙雖由政府保護之厚非官民一致協心□力安能成此大業哉項者東大曽根町組合諸氏
  相謀欲建碑以伝後昆来□余□乃叙其梗概云爾 昭和十三年三月中浣    泰山 堀尾茂助撰并書」

 概略次の内容である。
 この名古屋周辺地域は田園都市のような景観であった。民間で城東耕地整理組合をつくったが、区域が広いので11区に分け、六郷村と大曽根町は第五区であった。この工区は大正2年1月に工事を始め、昭和2年11月に竣工した。それ以来大きく発展して人口が増えていった。大正8年には都市計画法ができ、家が建ち並び昔の面影はない。この地域は名古屋の咽喉部という場所で、貨物や人の出入りが多く、将来の賑わいは予想もできない。大正11年に名古屋市へ編入され東大曽根町になった。城東耕地整理組合の総工事費は95万円余であるが、東大曽根町はしばしば変更設計を行ったので17万7千円余の巨額になった。関係者の寝食を忘れた尽力で事業は完成した。政府の保護があったが、官民が一致し心を合わせたから大事業ができたのである。組合員が碑を建てたいと言うことなので、後の時代の人のために概略を書いた。
       昭和13年3月    堀尾茂助



延喜式神名帳を巡る争い
 東区には、国道19号を隔てて片山神社が芳野二丁目に、片山八幡神社が徳川二丁目にある。二つの片山神社は、式内社の地位をめぐり、明治時代まで争いを何百年間もくりかえしていた。

 津田正生の『尾張地名考』はそのいきさつを「瀧川氏蔵王の神主が片山の名を奪ひしとのみ心得て常に不快に思はれて強ひて大曽根を片山にせられしなるべし。片山神社は七尾永正寺の天神ならんもしるべからず」と記している。
 『尾張地名考』によれば、瀧川弘美が、芳野町の片山神社の神主が片山という名を奪って名づけたのを不快に思って、むりやり大曽根の八幡社を片山神社としたのであろうとしている。
 瀧川弘美の考えは、「延喜式の山田郡片山神社は、大曽根八幡之社是也。其後杉村之蔵王社人片山の社号を拾ひて式内の神社とせるものは末世の人情憎むべし」という説である。
 式内社(延喜式の神名帳に記載されている神社)は、大曽根の八幡社で、杉村の蔵王社が片山と名づけたのは憎らしいことであるとしている。

 『尾張志』は、客観的に「此社を近き年ごろ神名式に見へたる山田郡片山神社なりといふ説あるにつきて此社伝地理などよく聞き見明たるに然いふばかりの故縁なきにしもあらねど的証なければいかかあらんされど地理は片山といふべき形勢ありて古社ともおぼしき」と述べている。
 地勢が片山(一方にだけ傾斜のある山)で、片山神社と呼ばれる理由がないわけでもないが、たしかな証拠もないので断定することはできないとしている。
                                  (故 澤井鈴一氏記述)




 2025/09/27