特攻隊員の碑
関 貞 寺

 名古屋台地の北端に建つ関貞寺は、江戸時代初期の創建で、北の眺望が開けて名古屋三景の一つともいわれた。境内には太平洋戦争の時に特攻隊員として沖縄で戦死した若者の碑が建っている。

    江戸時代初期の創建   名古屋三景の一つ   特攻隊員の碑



江戸時代初期の創建

 松林山関貞寺は曹洞宗の寺である。
 寺伝によれば、寛永7年(1630)12月、薩摩の国の実山関貞和尚が建立した寺であるとのことである。もともとは片山八幡神社の松林の中に建っていた観音堂をここに移して修営したものであるという。
 なお別の資料では、関貞和尚以前に観音堂がここにあり、それを元に関貞寺を創建したとしている。

◇本尊……春日作の十一面観音
 本尊は十一面観世音菩薩座像で、『尾張名陽図会』には「本尊十一面観音佛工春日作にして長谷寺観音と同木同作といふ」と書かれている。

『尾張名陽図会』
 これを見ると、春日という名前の仏師が作ったと受け取られる。インターネットで検索すると日本各地に「仏師春日作」「春日仏師作」の仏像がある。しかし、運慶や湛慶などは活躍した時代や作品が分かっているが、春日という仏師については何も分かっていない。
 茨城県立図書館のレファレンス(依頼により調査した結果)では、「仏師の春日について知りたい」の依頼で調査し、「春日について書かれた資料にはたどり着けず」と回答している。いろいろ調べたが、「仏工春日作」「春日仏師」の言葉はあってもいつの時代のどうゆう人かの記録は見つからなかったとの事である。
 また、宮城県指定文化財「木像弥勒如来座像」の説明文には「寄木造で、運慶、湛慶などを総称した春日仏師(奈良仏師)の作と伝えられる。」と書かれている。

 春日仏師や仏師春日は、奈良出身或あるいは奈良で修行した仏師が作ったという事のようである。
 長谷寺(奈良県桜井市)の観音と同木同作と『尾張名陽図会』に書かれているが、長谷寺の本尊は開山以来何度も火災に遭って作り替えられている。現在のものは天文7年(1538)に仏師運宗たちにより作られたもので、像高10mもの木(楠)造十一面観世音菩薩立像である。



名古屋三景の一つ
 『尾張名陽図会』に次の記載がある。
 「此寺は大曾根の坂上にして、書院より北を見はらし殊興あり、こ丶を名陽にての絶景として名古屋三景ともいえり」。
 名古屋台地の北端に位置しているので北の眺望が開け、名古屋三景の一つに挙げられるほどだったとのことである。

 今は、建物に遮られて何も見ることはできないが、明治の終わりころまでは美濃・越前・加賀・近江・三河・信濃・尾張北部の七州が一眸に収められたので、関貞寺の書院は七州閣と称せられていた。
 明治28年(1895)、当時首相であった伊藤博文は第三師団長であった桂太郎(明治34年から首相)とともに関貞寺を訪れ、七州閣からの眺望を楽しんだ。求められて額に「松聲禅榻」と書き、七言絶句をしたためた。
   七州風景落眉間 前古英雄呼不還 欲起猿郎聞得失 皇威今已及台湾
 日清戦争に勝利し高揚した気分を感じさせる漢詩である。




特攻隊員の碑
 境内に碑がある。表には「特攻院義忠増信居士」と彫られている。裏面には「故陸軍少尉 太田増信 昭和二十年五月二十五日 第五十二振武隊員トシテ沖縄本島周辺ニ蟠踞セル敵艦船群ニ対シ必死必中ノ体当リ攻撃ヲ決行シ戦死ス 行年二十才 今次戦争ニ於ケル功ニ依リ功四級金鵄勲章及勲六等単光旭日章ヲ授ケ賜フ」と刻まれている。
 昭和20年(1945)5月25日、太田増信さんは沖縄戦のさなか第五十二振武隊員として特攻に参加し戦死されたとのことだ。わずか20歳の若者であった。

◇特攻攻撃
 昭和19年10月から爆弾を積んだ飛行機で敵艦に体当たりする特攻攻撃が始まった。特攻隊員として戦死した人の数は、靖国神社にある「特攻勇士を讃える」碑の記載では開戦当初の特殊潜航艇なども含めて陸海軍合計5,843名となっている。訓練中の犠牲者なども入れるとさらに大きな人数になるであろう。



 インターネットで調べると、
 航空部隊の兵士は養成に時間がかかる。少年時代から教育した方が良いとの考えから海軍は昭和5年(1930)に飛行予科練習生(予科練)を、陸軍は8年(1933)に飛行学校生徒(少年飛行兵)の採用を始めた。いずれも卒業すると下士官として部隊に配属され、日中戦争から太平洋戦争終結まで航空戦力の中核を担っていた。
 いよいよ戦局が悪化してきた昭和19年(1944)6月、本土決戦に備えて各地にある陸軍飛行学校は戦闘部隊である教導飛行師団に変わり、8月になるとそれらを統括する教導航空軍が置かれ12月に第六航空軍に改編された。
 翌20年(1945)三月、米軍による沖縄への侵攻が始まった。すでに十分な戦力を無くしていた陸軍は九州各地や山口県・沖縄県・台湾の基地から航空特攻攻撃を行い1,036名の若者が散っていった。このうち愛知県出身者は43名である。出撃基地は本土最南端の知覧が一番多く402名がここから帰らぬ旅へと出で立った。九州から出撃した陸軍の特攻隊は振武隊、台湾からの出撃は誠飛行隊と名付けられた。なお、出撃して何らかの事情から帰還したものは福岡にあった振武寮に収容され、生還したことを激しく糾弾されたという。この他に海軍も特攻を行っており、その総称が神風特攻隊である。

◇第五十二振武隊
 この碑が建てられた太田増信さんの所属した第五十二振武隊は12名編成で、名簿の一番下に伍長として名が載っている。戦死により4階級特進して碑に書かれているように少尉になったのであろう。彼は少年飛行兵に志願し、現在の伊勢市にあった明野教導陸軍飛行師団(現:陸上自衛隊明野駐屯地・陸上自衛隊航空学校本校)で訓練を受け、知覧へ転属となり第五十二振武隊に組み込まれた。同隊には明野のほか常陸教導飛行師団から転属したものもいた。隊員たちが知覧に到着した日は5月10・11・18日等の記載がある者もいるが、彼を始め5名は記載が無く25日に出撃の記載だけである。知覧の町の人々は死地に向かう特攻隊員を手厚くもてなしたという。彼には出撃前の安らぎのひとときはあったのだろうか。

 約80年前に起きたことである。ずっと昔のことのようにも思われるが、生きていれば今は100歳になっている。こんな事は昔起きたことで、今の時代・これからの時代には起きないと考えるのはいかがであろうか。このような碑が再び建てられる時代にならないよう、変わりゆく日本の進路をしっかりと見据えてゆかなければとの想いが湧く。




 2025/06/27