『名古屋明細地図』
赤塚交差点から少し東へ行った北側に、かつて大龍寺があった。この寺は五百羅漢が祀られたことで有名になったが、檀家がなく維持に困り一時期は困窮して羅漢などの売却騒動が起きている。明治になると復興して名古屋名所となり、大正時代に千種区へ移転して今も羅漢像が祀られている。
五百羅漢の大龍寺
一時は困窮するも 名古屋名所に
五百羅漢の大龍寺
大龍寺は五百羅漢で有名だ。
五百羅漢とは釈迦が入滅後に行われた第1回の経典編纂に集まった仏弟子を指すと言われている。多くの羅漢像を祀った五百羅漢は日本各地にあり、東京の深川にあった五百羅漢寺は北斎の富嶽三十六景にも取りあげられている。
名古屋にもある。大龍寺がそれだ。
享保10年(1725)に阿原村(現:新川町)にあった地蔵堂が成瀬氏の下屋敷南に移された。『名古屋市史』では13年(1728)に3代藩主綱誠(つななり)から寺地をもらい堂宇が建設され、綱誠やその生母等からの支援があったという。しかし綱誠は元禄12年(1699)に亡くなっているので何かの間違いであろう。寺の由来碑では7代藩主宗春となっているが、宗春が家督を継いだのは享保15年(1730)なので、年が正しいとすれば6代藩主継友になるが、何が正しいかは不明である。
◇五百羅漢祀られる
開山から半世紀後の安永8年(1779)に羅漢堂が完成し、9年には羅漢像300体が祀られた。評判が高まり、文化元年(1804)には堀川で盛大な船遊びをした聖聡院も参拝に訪れている。
『尾張年中行事絵抄』では次のように紹介している。
東部で一番繁栄している場所で、7月16日の施餓鬼供養は大変な賑わいとなる。門前には茶店や露店が出てみたらしや田楽を焼く煙が霞のようにたなびいている。
南無おみゃ たうふたうふの 客たてゝ 皆彼岸へ 夜ぶねなりけり (行風)
◇時の鐘
文化14年(1817)から時の鐘がつかれるようになった。『金明録』(猿猴庵日記)によると、このあたりから役所へ勤めに出ている人が、時の鐘がないので遅刻するから造ったとのことである。
『尾張名陽図会』
この頃は、鐘楼がない
『尾張名所図会』
五百羅漢大施餓鬼
『尾張年中行事絵抄』
一時は困窮するも 名古屋名所に
◇五百羅漢など 売却騒動
しかし、檀家のない寺の維持は大変だったようだ。五百羅漢が祀られて80年近く後の安政6年(1859)、大変な騒ぎがもちあがった。五百羅漢や大仏が東輪寺(現:中区松原三)へ売られてしまったのだ。6月1日にまず50体ほどが東輪寺に運び込まれた。これが知れ渡ると人々が騒然となった。
大仏には足場が架けられ分解する準備が始まった。大仏は建中寺が寄進した物だ。建中寺からは他所に移すなら建中寺に移して安置すべきだとの声が上がる。羅漢像のうち100体あまりは百人組の人々が寄進した物だ。移すならそれぞれ寄進した像を家に持ち帰り祀るとの声が上がった。7月16日の施餓鬼供養の時には、和尚めがけて投げつけられた石が東輪寺の弟子に当たって怪我をしたという。
盛り上がる世論と東部の18町が寄付金を集めて大龍寺へ贈呈したこともあり、11月26日に東輪寺に運ばれていた100体ほどの羅漢像が戻されて騒ぎは収まり、元治元年(1864)には羅漢像の修繕が行われている。 その後も苦しい経営が続き、明治6年(1873)に秀善和尚が就任した頃は「堂宇廃頽無昔日之観」という状態であった。
◇明治になり 名古屋名所
一時衰退した五百羅漢は僧俗の努力で復興し、名古屋の名所として知られるようになった。
明治19年(1886)発行の『名古屋明細地図』は余白に名古屋の名所22か所の絵を掲載しているが、その一つに五百羅漢堂が取りあげられている。
また、36年(1903)に発刊された『名古屋案内』には「賽客(さいかく、参拝人)頗(すこ)ぶる多く、且つ彫作美術の研究者の如きは、態々(わざわざ)來り觀るもありて、名古屋名刹の一たるを失はず。」と紹介し羅漢像の写真を掲載している。
◇大正7年 千種区へ移転
多くの参拝者を迎え境内が手狭になったことから、明治44年(1911)に東山(現:千種区城山新町二丁目)に土地を入手して移転することになった。大正7年(1918)5月に入仏供養が行われ、今もかつての偉容を伝えている。
現在の大龍寺(千種区城山本町)
現在の五百羅漢(千種区城山本町)
2025/09/27