日本有数の兵器製造工場

熱田・名古屋兵器製造所

 現在、神宮東公園やいくつもの企業がある東海道線から新堀川までの広大な土地に、かつては兵器製造所があった。
 日露戦争開戦と共に熱田兵器製造所が造られたのが始まりで、その後拡張され北側に名古屋兵器製造所ができ、千種区にも製造所が置かれた。日中戦争が激しくなると、春日井市の鳥居松と鷹来などにも製造所ができ、不足する労働力は動員学徒などで補充された。
 何度も空襲を受け、多くの犠牲者も出ている。

    砲兵工廠時代   名古屋工廠時代   学徒動員・徴用工・女子挺身隊
    空襲と戦傷死   記念碑の建立  



砲兵工廠時代

 造兵廠とは軍隊に直属する兵器工場で、飛行機や艦船、大砲や鉄砲、爆弾や弾薬、車輌や馬具・軍刀などの兵器の製造や調達を行った機関である。

◇砲兵工廠設置
 明治3年(1870)、兵部省に造兵司を設けたのが始まりで、12年(1879)に東京と大阪に砲兵工廠がおかれた。

◇熱田兵器製造所 設置
 明治37年(1904)2月に日露戦争が勃発した。東京と大阪に砲兵工廠があったが生産が追いつかず、名古屋に東京砲兵工廠熱田兵器製造所が造られることになった。

 明治37年(1904)3月に、経営難に陥り操業を止めていた鉄道車輌製造所の工場と隣接地数万坪を買収して、同年11月に事業を開始した。弾薬車・渡河作戦用の鉄舟・村田式歩兵銃の修理などをここで行っている。
 低湿地なので6~7尺(1.8~2.1m)ほど土盛りしたが、造成には名古屋市から新堀川の掘削土を購入したほか、高田村(現:瑞穂区高田小学校付近)の土砂などを使用している。
 38年(1905)の職工数は1,500余名、40年(1907)時点では2,400名ほどであった。

 第一次世界大戦後は飛行機の重要性が認識され、大正6年(1917)に飛行機製造が東京砲兵工廠から熱田兵器製造所に移管されて、翌7年(1918)に製造が始まっている。9年(1920)になると発動機の製造をこの年新設された名古屋機器製造所(千種区)に移管し、熱田兵器製造所は機体の生産を行うようになった。



熱田兵器製造所
『愛知県写真帖』 明治43年



熱田兵器製造所 正門
『愛知県写真帖』 大正2年

◇名古屋兵器製造所 設置
 大正6年(1917)、熱田兵器製造所の北隣に大阪砲兵工廠名古屋兵器製造所が設立された。
 主に弾薬と薬莢の製造を行っている。

◇名古屋機器製造所 設置
 大正9年(1920)、現在の千種区に東京砲兵工廠名古屋機器製造所が開設され、飛行機のエンジン製造を始めている。


明治40年 『名古屋市及附近図』


大正6年 『名古屋市街全図』


大正11年 『大名古屋市全図』



名古屋工廠時代
◇名古屋工廠 誕生
 大正12年(1923)、それまでの砲兵工廠を再編し陸軍造兵廠がおかれた。東京・名古屋・大阪に工廠をおき、火薬の製造を行う火工廠を東京にもうけた。

 それまでの東京砲兵工廠熱田兵器製造所と名古屋機器製造所、大阪砲兵工廠名古屋兵器製造所が名古屋工廠になり、併せて名古屋機器製造所は千種機器製造所〔昭和7年(1932)に千種兵器製造所〕に改称された。

 軍隊の一機関なので主要ポストは軍人が就いている。
 終戦時は、造兵廠長は少将、製造所長は熱田製造所は少将だが他は大佐、工場長や掛長(かかりちょう)は主に大尉から少尉までの尉官クラスが主で、一部少佐が任命されている。



名古屋工廠歌  『絵葉書』
円形の図柄は、金鯱をモチーフにした造兵廠のマーク

◇工廠の様子
 昭和初期(1926~)の熱田兵器製造所は従業員も少なく、まだあまり緊迫感がない様子であったようだ。

 『碑の建立と思い出』には次のように書かれている。
 「市電の高蔵停留場から雁道へ通じる道を東へ東海道線・名鉄線の踏切を渡り切るとポプラ並木が新堀川まで続き、この間名古屋陸軍造兵廠本部・熱田製造所・高蔵(名古屋)製造所の白いコンクリート塀や、赤レンガ造りの建物で外部と遮断され、右手中央部には堂々たる正門そして車廻しを前に正面玄関が窺われ、門脇には四六時中守衛が立ち、時々この門を通り得る階級の人に守衛が直立不動の姿勢で送迎している態は、正に人も羨やむ栄光と威厳の象徴ではあった。」

 昭和2年(1927)に名古屋工廠へ配置換えになった人は
 「精進川に架る高蔵橋と、東海道線高蔵踏切を東西に結ぶ道路を隔て、南北に分れ、総面積16万坪。南構内には、東海道線熱田駅からの引込線があり、資材の搬入や製品積出しを、東南隅には広大な貯木場が在り、名古屋港へ通じ、木材を筏で搬入していた。……中略…… 千種機器製造所は、現在の名古屋市東市民病院で、敷地は5万坪であった。従業員は2廠合せて1,500名前後で、内女子従業員は電話交換手、給仕、看護婦他で20名位だったと思う。」

 昭和3年(1928)から勤務した人は
 「当時雁道から正門に来る道の南側に春になると田植がしてあり、稲が成育していました。
 大正15年の軍縮の後で、高蔵(名古屋)は閉鎖されて居て製造所は熱田と千種の2ヶ所で、サルムソンと言う複葉飛行機の機体は熱田で、エンジンは千種で、又、銃器の木部や皮革は熱田で、胴部は千種でという具合に完成させており、其の外鉄舟、弾薬車の修理、新調をしていた。熱田の人数も400人位だったと思います。」

◇戦争の泥沼化と兵器製造所の増設
 その後、時局は緊張を増し、昭和6年(1931)9月に満州事変、7年(1932)1月に第一次上海事変、12年(1937)7月に盧溝橋事件、8月に第二次上海事変が起きて日中戦争が始まり泥沼の戦いになっていった。

 満州事変が始まると兵器増産が求められ、造兵廠は昼夜二交代勤務になった。

 このようななか、昭和14年(1939)7月に熱田兵器製造所の飛行機機体部門と千種兵器製造所のエンジン部門が立川〔現:立川市・昭島(あきしま)市〕に移転して名古屋工廠立川兵器製造所ができ、翌15年(1940)4月に陸軍航空工廠になった。
 この時、兵器や弾薬などの購買・貯蔵・補給などを行ってきた兵器廠と造兵廠が統合されたことで、陸軍造兵廠名古屋工廠から名古屋陸軍造兵廠に改称されている。

 また、昭和14年(1939)8月に千種製造所の一部を分離移転し、鳥居松製造所が設立された。

 昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争が始まった。
 開戦一週間前の12月1日に、名古屋製造所の一部を鷹来(たかき)村(現:春日井市)に移転し鷹来製造所を開設した。

◇戦況悪化による疎開で兵器製造所を増設
 19年(1944)6月のマリアナ沖海戦で日本軍は惨敗し、7月にはサイパン島守備隊が玉砕した。
 このような戦況のなか、7月に千種製造所の一部を主体に名古屋製造所の一部も含めて柳津(やないづ)村(現:岐阜市)に疎開し柳津製造所を開設、熱田製造所と名古屋製造所の一部を三重県楠町(現:四日市市)に疎開し楠製造所が誕生している。


大正13年 『大名古屋市全図』


昭和7年 1/25000


現在 『スーパーマップル』


昭和22年 1/50000


現在 『スーパーマップル』



労働力不足  学徒動員・徴用工・女子挺身隊
 戦争が激しくなると働き盛りの若者は兵隊に取られ労働力が不足してきた。

 昭和初期には熱田と千種(名古屋は軍縮で休止中)を合わせて1,500名ほどだったのが、戦争末期には6製造所で5万数千人(熱田東公園の碑建立時に出版された『碑の建立と思い出』記載の数。碑には3万5000人)が働いていた。その一翼を担ったのが勤労動員の学生・徴用工・女子挺身隊などであった。

 学生は昭和13年(1938)から年数日の勤労が始まり、徐々に期間が延長されていった。19年(1944)1月になると年間4か月、4月からは通年で動員されるようになった。

 徴用工は昭和14年(1939)から始まり、16年(1941)になると大規模に行われるようになった。19年(1944)には朝鮮で男子の徴用が始まり強制的に日本へ送られた。

 女子挺身隊は、昭和16年(1941)に14歳以上25歳未満の独身女性に年間30日の奉仕(非強制)を求めた勤労報国隊が前身で、18年(1943)に日数が増加され名称も挺身隊となり、19年(1944)8月以降は12歳から40歳の強制動員が行われるようになった。

◇各製造所の動員状況(『碑の建立と思い出』による)
・熱田兵器製造所
  動員学徒……第八高等学校(現:名古屋大学)、拓殖大学、県立第一高女(現:明和高校)
        市立第二高女(現:向陽高校)、市立第三高女(現:旭丘高校)
        私立第一工業学校(現:中部大学第一高等学校)
  徴用工………新潟、奈良、静岡、朝鮮

・名古屋兵器製造所
  徴用工・女子挺身隊員がいたが、詳細は不明。

・千種兵器製造所
  動員学徒……愛知一中(現:旭丘高校)、明倫中学(現:明和高校)、椙山高女(現:椙山女学園高校)
  その他
  女子挺身隊員

・鳥居松製造所
  動員学徒……300名ほどいたが、内訳は不明

・鷹来(たかき)製造所
  動員学徒……早稲田大学、明治大学高等学院、小牧中学校(現:小牧高校)
        野沢高女(現:長野県野沢南高校)、臼田高女(現:長野県臼田高校)
        岩村田高女(現:長野県岩村田高校)、磐田高女(現:静岡県磐田北高校?)
  徴用工………新潟・富山・石川・長野・静岡・愛知・岐阜・三重・朝鮮京畿道出身(28名)
  その他………名妓連及び一部楼主(風船爆弾の紙貼り作業)

・柳津(やないづ)製造所
  動員学徒……150名
  徴用工………150名
  女子挺身隊…500名
  その他………養成工 300名、岐阜妓連 30名

・楠製造所
  動員学徒……三重師範(現:三重大学)、河芸(かわげ)高女(現:白子高校)約400名
  徴用工………朝鮮 約20名




空襲と戦傷死

   武器製造の拠点なので、戦争末期に開設された柳津と楠製造所以外はみな空襲を受けている。とりわけ、千種と鳥居松は5回空襲を受け、重点的に狙われたようだ。死傷者の数は『碑の建立と思い出』の記載か所により多少異なりはっきりとは分からないが、少なくとも140人以上であった。
 これらの内に動員学徒や女子挺身隊など、今の高校生ほどの若者も多数含まれていることであろう。

 
 製造所名  空襲回数 空襲時期  戦傷死数
 工廠本部  3   昭和20年3・5・6月  9人
 熱 田  21人
 高蔵(名古屋)  2   昭和17年4月、20年3月  4人
 千 種  5   昭和20年3月に3回、4・6月  74人
 鳥居松  5   昭和20年3・4・5・6・8月  31人
 鷹 来  1   昭和20年8月  なし
 柳 津  なし    なし
 楠  なし    1人
      ※戦傷死数は『碑の建立と思い出』記載数がページにより異なり、一覧表の数字を掲載。
       この他、公傷死14人、平病死37名の記載あり。



記念碑の建立
 昭和54年(1979)11月、神宮東公園の北西、かつての名古屋造兵廠と熱田兵器製造所の正門付近に、殉職者の冥福と世界平和を祈念して「名古屋陸軍造兵廠跡」碑が建立された。

 また少し南には平成4年(1992)5月に(高蔵)徴友会が「青春思い出の地 徴用五十周年記念」として建立した「心の平和」モニュメント(山田将晴作)が建てられている。

 造兵廠の遺構としては、中京倉庫の北西にレンガ造の建物が一棟残るだけである。


「名古屋陸軍造兵廠跡」碑


「青春思い出の地
 徴用五十周年記念」碑




唯一残る遺構、レンガ造りの建物





 2024/06/23