現在、七里の渡しの常夜灯近くに時の鐘が設けられているが、これは昭和58年(1983)に新しく造られた施設で、江戸時代は熱田神宮正門(南門)南西にある蔵福寺に設置されていた。 |
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◇光友の命で設置 2代藩主光友が、延宝4年(1676)に蔵福寺に時の鐘を造らせた。 鐘は高さが5尺1分(1.5m)直径が2尺8寸8分(0.9m)で、鐘楼は2間4尺(4.8m)四方で、高さが4間1尺(7.6m)の大きさであった。 |
現在は、市博物館が保存 |
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◇香時計で時刻を計る 鐘を撞くには時刻を知る必要があるが、現在のように正確な時計がなく、しかも日の出と日没を基準として季節により時間が変わる不定時法の時代だ。 このため鐘楼に併せて中間(ちゅうげん)小屋が建てられ、3人の鐘撞(かねつき)中間がおかれて抹香を焚いて時刻を計っていた。この中間の給与は藩から支給されている。 ◇今と異なる時刻の呼び方 時刻の呼び方は今と異なり、深夜0時が九つ、午前2時が八つ、というように2時間毎に数字が減り、午前10時が四つになる。昼の12時にリセットされて九つになり、以降午前と同様に数字が減ってゆく。鐘を撞く回数は時刻と同じで、九つ時には9回鐘を撞いた。 明治4年(1871)9月16日から西洋式に変わり、今と同様の時刻表示が採用された。これに伴い鐘を撞く回数も、1時は1回、2時は2回というように改められている。 ◇明治40年に廃止 蔵福寺の時の鐘は明治4年(1871)の廃藩置県で名古屋県(5年から愛知県)から鐘撞き人の給与が支払われなくなり、以後は熱田町が支出している。その後、明治40年(1907)に熱田町が名古屋市に合併され、時の鐘は廃止された。 永い年月、人々に時を知らせてきた鐘は今も残り、名古屋市博物館が所蔵している。 |
2022/02/22 |
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