名古屋の木材産業を育んだ
『名区小景』 江戸後期
白鳥貯木場
 堀川岸にそびえる国際会議場とその南の公園、大学などの広い敷地は、かつて貯木場があった所だ。
 江戸時代初期に藩の御材木場が堀川河口に造られ、木曽の良質な木材が運び込まれた。このことが名古屋の木材産業発展のきっかけとなり、さらに近代産業が育まれていったのである。

    藩政時代の貯木場   材木の利用   御材木場の風景
    明治以降の変遷   材木と災害……西部木材港へ   白鳥貯木場の終焉



藩政時代の貯木場

◇春姫の化粧料……木曽山加増
 木曽の山が尾張藩領になったのは、元和元年(1615)のことである。
 初代藩主義直が紀州浅野家の娘春姫と結婚したとき、家康が「御台所の費用は如何ほどか」と聞き、家来が「一日黄金一枚ほど」と答えたので、木曽を尾張藩に加増したという。

◇木曽から白鳥……300日の旅
 山深い木曽は木材の宝庫。潤沢で良質の木材は、伊勢神宮を始め、聚楽第、大阪・江戸・名古屋城の建築資材として使われてきた。
 春4月、雪解けと共に伐採が始まり、9月頃から谷に流されて年末までに木曽川合流点に集められ、本流を下流へと流される。錦織(にしこおり、現:八百津町)の綱場で集められた木材は筏に組まれ、木曽川・鍋田川・筏川を経て伊勢湾に入り、当時は堀川河口であった白鳥の「御材木場」(貯木場)に運び込まれた。伐採から300日の旅だ。

◇尾張藩の直営事業
 当初、木曽材の伐木と運材事業は木曽の地侍で、尾張藩の木曽奉行であり福島関所の管理運営も担当していた山村氏が行っていた。
 寛文5年(1665)から林政改革の一環として藩の直営に変わり、上松と錦織に材木奉行を配置して伐採と輸送を行うようになっている。
 寛文5年(1665)から安永4年(1775)までの木曽山の出荷量は1億7641万本にのぼり、これは年平均では160万本もの本数である。

◇白鳥に御材木場
 白鳥に御材木場が設けられたのは木曽山が藩領になった元和元年(1615)頃である。

 当初は御国奉行が材木奉行を兼任していたが、14年後の寛永6年(1629)になると御材木場が整備され、専任の材木奉行が置かれるようになった。さらに寛文6年(1666)には4人に増員されている。

 置き場も数度にわたり拡張されているが詳細は不明である。断片的に残る資料を記載すると、次のとおりである。

『尾張名所図絵』
 ・当 初……法持寺西北の堀川東岸に御材木場設置(元熱田神領地)
 ・寛永14年(1637)、16年
     ……熱田神宮領地であった御材木場の替地として井戸田村(現:瑞穂区)の土地を引き渡し
 ・慶安2年(1649)
     ……熱田神領地のうち374石余を御船蔵や御材木場などにし、替地として井戸田村の土地を与える
 ・寛文5年(1665)……北へ1,860坪拡張
 ・寛文13年(1673)……総面積、9,394坪
 ・幕 末……総面積、23,900坪

◇御材木場の様子
 江戸時代後期と思われる絵図に見られる御材木場の様子は次の通りである。
 堀川の両岸に御材木場が設けられ、川に面した所を除き柵や高塀で囲まれている。堀川両岸の道路南北端には木戸が設けられている。これは納屋橋南東にあった藩蔵と同じである。
 東岸の南寄りに御材木奉行役所があり、近くに勘定場や食焚小屋(食事を作る小屋)があることから、ここが御材木場の中枢部であった。
 西岸の南端近くに間尺小屋があり、到着した筏の寸法などを送り状と照合していたと考えられる。
 区画ごとに丸太・角材・橋用材など置く木材が決まっており、橋用材の置き場が広い。また野積みだけでなく一部は小屋のなかで桧の角材やのし葺き(こけら葺き)の材料、橋用の角材が保管されていた。


『白鳥御材木場 御船蔵 古絵図』 年代不詳

『尾張国町村絵図』収録の熱田図
 年代不明 (稲荷があるので1804以降)

※幕府の木材も堀川河口へ
 名古屋には藩領の木曽材だけでなく、天領であった飛騨の材木も廻送され、幕府の御材木所が堀川の中島(現:白鳥橋東岸周辺)に設けられていた。
 飛騨材の運送は幕府の直営ではなく、江戸までの海上輸送も含めて町人の一括請負で行われていた。


材木の利用

◇藩事業に使用
 材木場の木材はまず藩が使用した。
 藩士には毎年知行高に応じて無節の上材を家屋の普請用として支給した。また城内の普請用に、やはり無節の上材を巾下門近くの堀川岸にあった御作事場へ、杁の製造・補修用として無節の並材を古渡橋東南にあった杁御作事場へ引き渡した。
 古図では堀川東岸の御材木場に橋御材木場・橋木場の記載があるので、橋に使用する木材をここで保管していたようである。


『元文三年名古屋図』 1738

『元文三年名古屋図』 1738

『安政 名古屋図』 1854~60 

◇余剰材は払い下げ

 藩が使用した余剰材は商人に払い下げられた。
 価格は入札ではなく「御材木御値段帳」記載の建値に基づいて払い下げる指定価格制である。

 払い下げ材の8~9割は材木屋惣兵衛を始めとする8軒の株仲間が取り扱っていた。彼らは材木三か町と呼ばれた上・下・本材木町(五條橋~伝馬橋の左岸)に店を構え、白鳥で払い下げられた材木は筏で堀川をさかのぼって運ばれ、三か町は材木が林立し檜の香りがただよう材木の町の様相を呈していた。一般の材木商は、これら株仲間の材木商から仕入れて小売りをしていた。幕末頃の名古屋の材木商は主なものだけでも54軒ほどあった。



『安政名古屋図』 1854~60



『木曽式伐木運材図会』に描かれた 御材木場の風景
 

白鳥湊着桴之図

(左図の拡大) 藩営事業なので「御用」の旗
 
(左図の拡大) 筏には筏師が休憩する小屋根
  

揚木之図 筏を解体して陸揚

卸木之図 貯木していた木を出荷

大船之図 江戸などへ輸送のため船積



明治以降の変遷
◇管理者が転々……名古屋県→材木屋摠兵衛→内務省→御料局
 明治4年(1871)の版籍奉還で木曽山は内務省の所管になり、白鳥貯木場は名古屋県が管理していたが、5年(1872)に藩政時代からの有力材木商 鈴木摠兵衛に2,500円で払い下げた。9年(1876)に内務省が買い戻し22年(1889)には御料局に移管されている。

◇払い下げ再開……名古屋は木材の集散地
 木曽での伐採は明治2年(1869)に藩営伐採事業が打ち切られたものの、9年(1876)に鉄道寮からの注文材を出荷するため内務省による伐採が始まった。
 11年(1878)には材木商への払い下げも再開し、白鳥貯木場周辺に進出する材木商が増えてきた。木材は、鉄道の枕木や電柱など、文明開化による新しい用途も生まれ需要が高まり、木曽・飛騨からの筏による輸送体制が確立されている白鳥貯木場の果たす役割は大きかった。
 17年(1884)になると名古屋区材木商営業組合が設立され鈴木摠兵衛が頭取に就任し、旧藩時代と同様に名古屋は木材の集散地としての地歩が固められた。

 白鳥貯木場での払い下げは公売で行なわれ、明治後期の記録では年に10回ほど開催されている。入札に参加するのは名古屋の材木商が主体で、時には大阪や東京の業者も加わり、毎回50~80人が参加した。

※民間業者による売買
 白鳥貯木場で取り扱うのは、木曽や飛騨の御料林(皇室財産の林)から搬出された木材である。それ以外の飛騨・美濃・伊勢などの民有林や北海道材・樺太材・輸入材などは、民間の市場で売買されていた。
 明治中期から尾州木材(株)など3社が行っていたが、明治30年(1897)に設立された愛知材木(株)(後の名古屋木材)に併合され1社になり、相対売買と入札での売買を行った。木場市が月3回ほど開かれ、そのほかに年3回ほどの桴市と小白木を扱う上市もあった。

※樹種の増加
 取り扱う材木は、民営貯木場も含めると明治半ば(1890頃)までは木曽・飛騨産が中心であったが、需要の高まりと輸送手段の発達により、他府県産のものが増えてきた。34年(1901)頃になるとマッチの軸木に使う北海道材などが入り始め、その後樺太やアメリカ、沿海州からも木材が運ばれるようになり、昭和になると南洋材が大量に入ってきた。

  ※木挽きが500人、機械製材始まる
 名古屋では製材も盛んに行われ、明治22年(1889)に愛知挽木会社が水主町に設立され機械製材が始まった。しかし手引き製材が主流で、38年(1905)頃の名古屋には500人の木挽き職人がいた。
 29年(1896)に「愛知挽木」は株式会社になり、本格的な機械引きによる製材とタバコの荷造り箱を製造し始めている。

 
『築港図』 明治41年
 
◇貯木場……拡張整備
 白鳥貯木場の取扱量は年々増え、御料材(木曽など皇室所有の森林からの木材)だけでも、明治末(1912頃)には年間20万石、大正前半(1910年代頃)は30万石、後半(1920年代頃)には40万石にもなり、百数十業者が取り扱っていた。
 それに応じて拡張と設備の充実が図られた。明治40年(1907)には隣接民地15,000坪余を買い上げ、大正6年(1917)には貯木池の改修を行い、構内に鉄道引き込み線を敷設して白鳥駅を設け陸上輸送体制も整えた。
 大正10年(1921)には幕末の倍近い47,000坪の敷地で、最大貯材量34万石を誇っていた。


明治33年 1/50000

大正9年 1/25000
 ◇堀川東岸の貯木場 払い下げ
 堀川東岸も白鳥貯木場であったが、大正12年(1923)に名古屋材木商工同業組合に払い下げられた。
 多くの木材が名古屋に集まるようになり活発な売買が民間業者で行なわれた。木材市を開くには多量の木材を置く場所が必要だが確保が難しく、大正9年(1920)から堀川東岸の地への移転運動が始まり、12年になって8,566坪の払い下げを受けることが出来たのである。
 この経過を記した「材木市場之碑」が昭和3年に建てられ、熱田記念橋近くの駐車場内に今も残されている。

 
◇筏輸送から鉄道輸送へ
 江戸時代から続いた筏輸送だが、木曽の御料材は大正12年(1923)、飛騨からのものは昭和9年(1934)を最後に全て鉄道輸送に変わり時代の要請に対応していった。
 
◇貯木場の様子
 材木は主に水面貯木されていた。敷地内の広い面積を貯木池が占め、池は水門で堀川につながっている。筏が水門を通り場内に引き込まれ、池に浮かべて貯木される。海水と淡水が混じる白鳥貯木場の水は木材のあく抜きにちょうど良く、優れた品質の材木になるという。また、貯木中に干割れする事がなく、虫も付きにくいという事だ。
 場内の陸地には「稲荷島・梅島・松島・桜島」などの名が付けられ、稲荷島には文化元年(1804)に、京都伏見から勧請した稲荷が祀られ「光星稲荷」と呼ばれていた。
 多くの人が立ち働き、昭和38年(1963)には堀川東岸との便を図るため「叶橋」が架けられ、市内では珍しい吊り橋として人気があった。

昭和31年 1/10000


叶橋 昭和60年

大正2年頃の風景 『愛知県写真帳』

※民営貯木場も誕生
 白鳥貯木場のほかに、民営の貯木場もできてきた。名古屋木材が瓶屋橋西南に20,000坪の設備を持つほか、名港貯木所、加福貯木場もできて名古屋は近代的な日本有数の木材集散地となり、それを背景としてマッチの製造やベニヤ産業が発達し、木材産業のメッカとなったのである。



材木と災害……西部木材港へ
 名古屋を代表する木材産業であったが、大きな災害も起きている。
 明治29年(1896)9月には、愛知郡五女子・四女子両村(現:中川区)の農民約300名が、みの笠姿で、竹ほらを吹ぎ、鐘太鼓を打ち鳴らし、村役場の提灯をふりがざして、名古屋堀川筋の材木商に押しかけた。堀川での貯木のため、浸水の難にあったと厳談したが、警官隊によって解散させられ大きな騒動にはならなかった。材木商は、材木の陸揚を承諾したとのことだ。

 更に、私たちの記憶に残る伊勢湾台風の惨状がある。昭和34年(1959)9月、高潮により市南部の貯木場から大木が流れ出し民家を打ち壊して被害を拡大し、水が引いた後も各地に巨木が転がりその回収は翌年7月までかかった。
 この経験から、貯木施設と木材工場を西部木材港をつくって移転させる計画が加速し、43年(1968)に飛島村に開設した木材コンビナートへの移転が進められた。



白鳥貯木場の終焉
 木材港への移転や外材の増加と木材不況などにより、堀川岸にたくさんあった材木商もだんだん減り、岸の至る所に建っていた材木陸揚げのクレーンも少しずつ歯抜けになっていき、昭和54年(1979)には熱田営林署が廃止された。

 貯木場の土地は大部分が名古屋市へ売却され、56年(1981)になると跡地は白鳥公園として都市計画決定された。
 平成元年(1989)に市制百周年記念事業として開催された世界デザイン博覧会の会場となり、今は、北に国際会議場、中央が広場と大学のキャンパス、南が白鳥庭園などがあり、多くの人で賑わっている。
 広場には、かつて貯木場であった事をしのばせる太夫堀と名付けられた水面が広がり、この水が堀川へと流れ落ちる口は、貯木場の中水門が昔の姿のまま水面下に残されている。

 木材業の繁栄を見守ってきた光星稲荷も無くなり、叶橋も62年に取り壊され、少し下流に御陵橋がつくられている。熱田神宮公園には、昭和3年(1928)に建てられた材木市場之碑が寂しく建っている。
 また、堀川や名古屋港で働いていた筏師たちの、丸太の上を身軽に飛び移り一本の鳶口で大きな材木を自在に扱う技術は、昭和48年(1973)に「名古屋港筏師一本乗り」として市の無形民俗文化財に指定されている。

昭和55年頃 『名古屋の河川』


昭和60年頃



 2021/11/24