『名区小景』 江戸後期 |
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堀川岸にそびえる国際会議場とその南の公園、大学などの広い敷地は、かつて貯木場があった所だ。 江戸時代初期に藩の御材木場が堀川河口に造られ、木曽の良質な木材が運び込まれた。このことが名古屋の木材産業発展のきっかけとなり、さらに近代産業が育まれていったのである。 |
藩政時代の貯木場 | 材木の利用 | 御材木場の風景 | |
明治以降の変遷 | 材木と災害……西部木材港へ | 白鳥貯木場の終焉 |
◇御材木場の様子 江戸時代後期と思われる絵図に見られる御材木場の様子は次の通りである。 堀川の両岸に御材木場が設けられ、川に面した所を除き柵や高塀で囲まれている。堀川両岸の道路南北端には木戸が設けられている。これは納屋橋南東にあった藩蔵と同じである。 東岸の南寄りに御材木奉行役所があり、近くに勘定場や食焚小屋(食事を作る小屋)があることから、ここが御材木場の中枢部であった。 西岸の南端近くに間尺小屋があり、到着した筏の寸法などを送り状と照合していたと考えられる。 区画ごとに丸太・角材・橋用材など置く木材が決まっており、橋用材の置き場が広い。また野積みだけでなく一部は小屋のなかで桧の角材やのし葺き(こけら葺き)の材料、橋用の角材が保管されていた。 |
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『白鳥御材木場 御船蔵 古絵図』 年代不詳 |
『尾張国町村絵図』収録の熱田図 年代不明 (稲荷があるので1804以降) |
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※幕府の木材も堀川河口へ 名古屋には藩領の木曽材だけでなく、天領であった飛騨の材木も廻送され、幕府の御材木所が堀川の中島(現:白鳥橋東岸周辺)に設けられていた。 飛騨材の運送は幕府の直営ではなく、江戸までの海上輸送も含めて町人の一括請負で行われていた。 |
『木曽式伐木運材図会』に描かれた 御材木場の風景 |
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揚木之図 筏を解体して陸揚 |
卸木之図 貯木していた木を出荷 |
大船之図 江戸などへ輸送のため船積 |
材木と災害……西部木材港へ |
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名古屋を代表する木材産業であったが、大きな災害も起きている。 明治29年(1896)9月には、愛知郡五女子・四女子両村(現:中川区)の農民約300名が、みの笠姿で、竹ほらを吹ぎ、鐘太鼓を打ち鳴らし、村役場の提灯をふりがざして、名古屋堀川筋の材木商に押しかけた。堀川での貯木のため、浸水の難にあったと厳談したが、警官隊によって解散させられ大きな騒動にはならなかった。材木商は、材木の陸揚を承諾したとのことだ。 更に、私たちの記憶に残る伊勢湾台風の惨状がある。昭和34年(1959)9月、高潮により市南部の貯木場から大木が流れ出し民家を打ち壊して被害を拡大し、水が引いた後も各地に巨木が転がりその回収は翌年7月までかかった。 この経験から、貯木施設と木材工場を西部木材港をつくって移転させる計画が加速し、43年(1968)に飛島村に開設した木材コンビナートへの移転が進められた。 |
白鳥貯木場の終焉 |
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木材港への移転や外材の増加と木材不況などにより、堀川岸にたくさんあった材木商もだんだん減り、岸の至る所に建っていた材木陸揚げのクレーンも少しずつ歯抜けになっていき、昭和54年(1979)には熱田営林署が廃止された。 貯木場の土地は大部分が名古屋市へ売却され、56年(1981)になると跡地は白鳥公園として都市計画決定された。 平成元年(1989)に市制百周年記念事業として開催された世界デザイン博覧会の会場となり、今は、北に国際会議場、中央が広場と大学のキャンパス、南が白鳥庭園などがあり、多くの人で賑わっている。 広場には、かつて貯木場であった事をしのばせる太夫堀と名付けられた水面が広がり、この水が堀川へと流れ落ちる口は、貯木場の中水門が昔の姿のまま水面下に残されている。 木材業の繁栄を見守ってきた光星稲荷も無くなり、叶橋も62年に取り壊され、少し下流に御陵橋がつくられている。熱田神宮公園には、昭和3年(1928)に建てられた材木市場之碑が寂しく建っている。 また、堀川や名古屋港で働いていた筏師たちの、丸太の上を身軽に飛び移り一本の鳶口で大きな材木を自在に扱う技術は、昭和48年(1973)に「名古屋港筏師一本乗り」として市の無形民俗文化財に指定されている。 |
昭和55年頃 『名古屋の河川』 昭和60年頃 |
2021/11/24 |
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