常識はずれの大ベニヤ工場
東洋プライウッド

 住宅や家具などにベニヤ板は必要不可欠だ。戦前から名古屋は日本有数の生産地だったが空襲で壊滅的な被害を受けた。戦後の復興は早く、昭和26年に熱田にできた東洋プライウッドは、当時の常識を外れた大工場である。しかし昭和40年代からラワン丸太の入手が難しくなりベニヤ会社は徐々に衰退し、東洋プライウッドも平成22年に住友林業クレストに併合され姿を消した。




◇戦前の名古屋 ベニヤ生産の集積地
 今も住宅や家具などで広く使われている合板は、名古屋で誕生している。
 明治40年(1907)11月に円頓寺の西で木工所を経営していた浅野吉次郎が、苦労の末日本で初めて製造に成功した。
 広幅の板を安く作れる合板は瞬く間に普及し、各地に製造工場ができ輸出も盛んになった。昭和8年(1933)には全国ベニヤ板業者連合会やその支部として名古屋ベニヤ協会などが各地に結成されて、加入者は昭和9年(1934)時点で全国123業者あった。そのうち名古屋支部には全国の18%、22業者が加入していた。12年(1937)には7億9000万平方尺(7,110万㎡)近い生産量となっており、その半分はラワン合板で、15年(1940)には戦前の最高生産量に達した。

◇戦災 壊滅的被害から急速復興
 大都市の海岸工業地帯に工場が多く立地していた合板業界は、戦時の空襲で設備能力の7〜8割が失われるという壊滅的な損害を被った。名古屋では、終戦時に操業していたのは名古屋ベニヤの1工場だけであった。
 戦災復興には大量の合板がいる。復興のスピードは速く、昭和22年(1947)には全国で316工場が稼働し、28年(1953)には生産量が9,584万㎡に達し、戦前の最高水準を超えた。

◇昭和26年 大工場 東洋プライウッド操業開始
 このようななか、昭和25年(1950)に名古屋の実業界で合板工場設立の動きが出て、10月に東洋プライウッドが設立された。当面の生産計画が月産27万5000㎡という、当時としては常識外れの大工場である。
 この頃の合板工場は、従業員50人以下の中小工場が多く、ラワン合板工場の場合月産9万2000㎡で従業員100人が限界で、それを超えると失敗するといわれており、合板工場の概念を根本から変えるものであった。

 昭和26年(1951)6月、かつての名古屋工廠熱田兵器製造所跡地南半分を使用した工場が完成し操業を開始した。
 他の工場にも大きな影響を与え、各地で規模拡大が始まった。大阪の永大産業は26年(1951)の工場火災後、月産45万9000㎡の工場を建設し翌年から操業を再開している。




昭和31年 1/10000

◇伊勢湾台風 飛島へ移転
 昭和34年(1959)の伊勢湾台風では、堀川や名古屋港周辺で貯木されていたラワン材などが流出して大きな被害を引き起こした。これを契機に堀川と新堀川沿川に集積している木材産業を、飛島村に建設する西部木材港とその周辺の木材工業地帯に移転させる計画がたてられた。
 東洋プライウッドも「名古屋木材街建設促進協議会」の常任理事や副会長になり事業の推進に尽力し、42年(1967)10月には7万3000㎡余の広大な埋立地を購入している。43年(1968)に西部木材港開設式が行われ、その後、東洋プライウッドも西部木材港へ移転した。

◇ベニヤ産業の衰退 平成22年住友林業クレストに併合
 合板産業は浮沈の激しい業界で、過剰生産による値崩れによる一斉減産などを繰り返してきた。これに加えて昭和40年代(1965~)になると、主要な原料であるラワン丸太の入手がだんだん難しくなってきた。ラワン産出国が資源保護と自国の産業育成のため原木での輸出制限や禁止を行うようになってきたからである。
 このようななか倒産や廃業も起き、名古屋だけでも昭和46年(1971)に浅井プライウッドが倒産、50年(1975)に岡本ベニヤが休業、52年(1977)に中村合板が倒産、59年(1984)に名古屋プライウッドが廃業するなどした。

 東洋プライウッドも昭和51年(1976)には199人の希望退職、52年には春日井工場の閉鎖と243名の退職、55年には九州工場で92名の退職、56年に九州工場でライン休止と115名の希望退職などがあり、2,000名を超えていた従業員は半減した。

 その後、平成22年(2010)に住友林業クレストに併合されて姿を消した。




 2024/06/20