明治の終わり近くに、熱田水泳協会が七里の渡し付近で観海流の古式泳法の道場を開設した。練習場は水質の悪化とともに南下しさらにプールへ変わったが、遠泳大会や寒中水泳大会など活発な活動を続けた。 |
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◇七里の渡し付近で古式泳法 明治40年(1907)に蓬ヶ島水泳協会が創設され、七里の渡し近辺の海岸で古式泳法の観海流による水泳練習が始まった。翌41年(1908)には寒中水泳を行い、会の名称を熱田水泳協会に改め、42年(1909)にはレベルアップのため若手水泳教師を津市の観海流本部へ派遣して泳法を取得させた。 ◇東築地へ移転し遠泳 明治44年(1911)になると道場の場所を神戸の浜から堀川河口の東築地南洋館海岸へ移した。 大正4年(1915)には築港(名古屋港)~大野の遠泳、7年(1918)には四日市~大野の伊勢湾横断遠泳を行うなど活発に活動している。古式泳法なのでスピードではなく距離を重視したようだ。 ◇練習場は南下、さらにプールで その後、道場は大正10年(1921)頃に新舞子(知多市)、大正末(1926)から昭和16年頃(1941)は加家(聚楽園)、昭和20年(1945)代に長浦(知多市)へと移転し、昭和39年(1964)から多屋海岸(常滑市)と熱田プールなど3か所での指導、さらに44年(1969)頃からは熱田プールや知多市のプールでの指導になり、内容も近代泳法が中心になった。 昭和49年(1974)から54年(1979)までは、名古屋港での寒中水泳大会を名古屋港管理組合と協同して開催している。 |
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絵葉書 |
左の拡大 水泳協会との関係は不明 |
2023/06/16 |
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