日本武尊と白鳥伝説
白鳥古墳
 古くからの歴史を持ち、東国への交通路でもあった熱田には古代からのさまざまな話が伝わっている。堀川岸にある白鳥古墳は日本武尊と宮簀媛のロマンスを伝える大規模な古墳である。

    6世紀築造の古墳   日本武尊と白鳥伝説



6世紀築造の古墳
 『新修名古屋市史』には次のように記載されている。

 「昭和20年代の名古屋大学による測量調査では、全長70m、後円部の直径45m、高さ6.5m、前方部の幅55m、高さ7mを数えたが、その時すでに前方部は道路の敷設によって減少していたため、本来の長さと幅はこれよりも大きくなる。墳丘に埴輪をめぐらすが、葺石はない。
 昭和61年(1986)の名古屋市教育委員会による調査では、後円部の東側で幅9m~11m、深さ約1.2mの周濠が検出され、もとは全周していたものと思われる。周濠の外側には、幅8m程度の周堤があった模様で、2重周濠の可能性もある。円筒埴輪には、窖窯無黒斑焼成で黄褐色仕上がりと暗赤色仕上がりのものがあり、ほかに形象埴輪もあった。……(中略)……白鳥古墳の築造年代については諸説があるが、須恵器の年代観から6世紀初頭をさかのぼることはないとみてよい。……(中略)……不明な点の多い白鳥古墳だが、墳丘の形式や規模、そして装飾須恵器をもつことなどから、首長系譜の古墳とみることは妥当である。」

 現在は堀川岸にあるが、造られた当時はこのあたりは海岸なので熱田台地の上に造られたこの古墳はとりわけ目立ち、訪れる人に地域の強大な勢力を誇示していたことであろう。

◇太刀や土器 現れる
 天保8年(1837)8月14日、暴風雨によって樹木が吹き倒されてしまった。えぐられた樹木の下に、大きな穴が見つかった。穴の中は、周囲が石によって囲まれ、5枚の蓋石で覆ってある石郭が現れた。横4~5尺(1.2~1.5m)、竪2間(3.6m)余、深さは5~6尺(1.5~1.8m)ほどある。中からは鈴鏡一面、太刀四振、鉾折一本、素焼の土器などがでてきた。
 『小治田之真清水』に、その時、出土したものの図が載っている。


『新修名古屋市史』


白鳥古墳の出土品 『小治田之真清水』



日本武尊と白鳥伝説
    白鳥古墳は日本武尊の白鳥伝説にちなみ、白鳥御陵ともよばれている。

 景行天皇の命をうけ東征の旅に出かけた日本武尊(やまとたけるのみこと)は、建稲種命(たけいなだねのみこと)の妹、宮簀媛(みやずひめ)と知りあい夫婦の契をなす。
 無事、東征の旅を終えた日本武尊は、休む暇なく伊吹山に賊を征伐に出かけた。毒蛇の毒気を体にうけた日本武尊は、伊勢の能褒野(のぼの)までたどり着き、病の床に臥してしまった。
 をとめの 床のべに わがおきし つるぎのたち その太刀はや
言い終わると武勇に満ちた32年の生涯を尊は閉じた。

 宮簀媛の所に置いてきた草薙の剣があったならば、伊吹山の賊も平定することができたのに。死の床にある尊の心に浮かぶのは、宮簀媛のことであった。
 能褒野に尊のなきがらを葬った陵を造ったところ、一羽の白鳥が飛び立っていった。尊が白鳥に化身したのだ。

 白鳥古墳の石段の下に、白鳥伝説を詠んだ本居宣長の歌碑が建っている。明治36年(1903)4月、熱田大宮司等によって建立されたものだ。現在は表面が剥落して読めなくなってしまったが、碑には、次の歌が刻まれていた。

 尾張熱田なる白鳥御陵にまうでて   本居宣長
  しきしまのやまとこひしみ白とりのかけりいまししあとところこれ

 白鳥と化した日本武尊は、宮簀媛への思いが断ちがたく、熱田の地へ飛び帰り樹にとまった。その跡に白鳥陵ができたと宣長は歌っている。


   『古事記』では、河内国志幾に白鳥は留ったので、その地に御陵を造ったとしている。
 『日本書紀』では、能褒野から飛び去った白鳥は琴弾原、さらに旧市邑に留ったので、この2か所に陵を造った。能褒野と合わせて3箇所に御陵を造ったので、その三陵を白鳥三陵と呼んでいるとしている。

 熱田の地に、白鳥が舞い下りたという記は『平家物語』の「剣巻」にみえる。
 「東洲に飛帰り、尾張の松子島へぞ飛び落ち給ひける。白き鳥にて飛び行き給ひし時、長さ1丈(3m)の白幡2流、付きて飛行きけるが、それも尾張国に飛び落ちぬ。鳥の飛び落ちたる所を白鳥塚と名付けたり。幡の飛び落ちたる処をば幡屋と名付けて今にあり」




 2021/12/03