誓願寺 創建
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誓願寺は、浄土宗西山派の寺で、大永5年(1525)に日秀善光尼により創建された。
◇熱田の神のお告げで創建
善光尼の父である山田藤蔵は織田信秀(信長の父)に仕える武士で、善光尼は吉野右馬允に嫁入りした。しかし18歳の時、夫の右馬允は越前の戦いで戦死し、善光尼は翌年信濃善光寺で受戒して「善光」の名を受け帰郷し仏道三昧の日を送っていた。
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ある夜の夢に熱田の神が現れ「神宮の西にある頼朝誕生の地にお堂を建て、山崎村の熊野神社にある楠で阿弥陀仏を造って祀り、天下国家の安全と衆生(しゅじょう)成仏を祈りなさい」とお告げがあった。
このことを織田信秀に話したところ楠を伐採し贈ってくれたので、享禄2年(1529)に京都から仏師を呼び阿弥陀像を彫ってもらった。様々な人に呼びかけてお堂を建立し、頼朝誕生の場所には祠を建てて寺の鎮守とした。
元亀元年(1570)には上人に任ぜられ「熱田上人」と呼ばれるようになり、慶長6年(1601)に96歳で遷化した。
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『尾張名所図会』 |
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◇権力者の手厚い庇護
亡くなる前年の慶長5年(1600)にもらい火で全焼したが、12年(1607)に豊臣秀頼の命で再建され、翌年には前田利家の室(妻)が鐘楼を再建している。
元和元年(1615)には当時の淸須城主である松平忠吉が東南の築地塀を、寛永7年(1630)には初代藩主義直が阿弥陀堂の重葺と方丈や書院を建設している。寛文元年(1661)には2代藩主光友が門と築地塀を新設し諸堂宇の修繕をした。
その後、痛んできたので享和3年(1803)に本堂や諸堂宇の再建が行なわれたという。
このように誓願寺は、各時代の権力者による手厚い庇護を受けてきた寺である。
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