如来教 本山
靑大悲寺
 靑大悲寺は、江戸時代後期に開教された如来教の本山で、教祖は熱田に住むきのという女性である。経典は「お経様」と呼ばれ、きのが神がかりして語った言葉を記録したので、名古屋弁で書かれた経典といわれている。

    教祖 きのの生涯   教義の一端   その後の教団



教祖 きのの生涯
 青大悲寺は、如来教の本山である。
 如来教は、享和2年(1802)、熱田新旗屋町にすむ、きのによって創唱された。

◇苦労を重ねた 前半生
 教祖きのは、宝暦6年(1756)に旗屋町に生まれた。数え年8歳のときすべての肉親を亡くし、天涯孤独になったきのは、叔父のもとに引きとられ、その後城下のいろいろな所へ奉公に出た。

 その後、蟹江村の農家へ嫁いだが夫は身持ちが悪く、きのは家を出て名古屋の漢方医橋本大進の家に奉公に出る。
 一生懸命に働くきのを見て患者であった尾張藩2,000石の石河主水家の隠居直澄が、ぜひきのを欲しいと願い出て、石河家に奉公に出るようになった。長く病床に伏したきりの石河家の隠居直澄に仕え、看病に努めた。

 直澄が亡くなった翌年の寛政7年(1795)、石河家を辞し、石河家で得たお金で新旗屋町の生家を買いもどし、畑仕事や一文商いの雑貨店、綿紡ぎの賃仕事をしながら一人ぐらしを始めた。
 すると前夫や知人の勧めでもらった養子の父親である法華行者の覚善が押しかけて居つき、蓄えも使い果たしてしまった。

◇金比羅権現 降臨
 きのはなんともならず神仏に祈るだけとなったが、享和2年(1802)に金毘羅権現が現れ「あなたを救おう」と告げ、その後もしばしば現れた。
 それを知った病や災いに苦しむ人々がきのを訪れて、金毘羅権現の神託を訊いてもらうようになった。

◇増える信徒
 文化初年(1804)頃には「日待」と呼ぶ会合を開き、神がかりとなったきのの説教を聞く活動が行われ、9年(1812)になると説教を正式に記録する「御綴り連」が5人の尾張藩士によりつくられている。
 この、きのが語った言葉を記録したのが「お経様」と呼ばれる宗派の経典になっている。

 だんだんと信者が増え、城下や尾張地域だけでなく、美濃や信濃・伊勢などにも広がり、13年(1816)には江戸の金毘羅講の一つが合流している。

◇藩により布教禁止
 文政3年(1820)尾張藩は、きのと側近の法華行者覚善を喚問し、覚善は所払いになった。

 活動を禁ぜられたきのは、江戸の豪商で名古屋にも店をかまえる石橋栄蔵の七本松の別宅でくらすようになり、その後、旗屋に戻り鉄地蔵堂の所に住むようになった。


『安政以前新訂 熱田図』
◇亡くなっても多くの参拝
 文政9年(1826)5月2日、きのは、信者から寄進された御器所村の隠居所で数名の信者に看取られながら亡くなった。荼毘に付し遺骨は白鳥山の所の墓地に埋葬された。

 江戸時代末期に書かれた『葎の滴』は、「白鳥山の墓石は最初は小さかったが後に大きくして屋根で覆われた。参拝の人が絶えずいつも香が焚かれている。延米商で豪商の小寺氏は特に信仰が厚く、鉄地蔵境内の整備をした。今も密かに金毘羅講の人が集まっているという」と記録している。



教義の一端
 神田秀夫氏(天理大教授で如来教研究者)の著述から、私が持った教義の一端は次のような内容である。

◇創造神話
 宗派独特の創造神話がある。
 それによると「如来様が遣わした神々が75人の人間を作ったが、その人間は神々とともに天上に行き、その後の人間は「魔道」(悪魔)が作った。」
 また、「お主たち(今の人々)のような悪心ものは、如来様では作れない。」という、人間は誰でも罪の性質を持っているといった考えも述べられている。
 そのような人間は、創造者である如来様に帰依することが、人間の嗜好や判断による混乱に終止符を打ち、人々の存在に恵みをもたらす唯一の道であるという考えが基本的な枠組みである。

◇経典「お経様」
 「お経様」は、信者から問われたりしてその時々にきのが語った言葉なので、体系的な著述ではなく、266巻あり様々な内容が書かれているが、その一端を紹介すると次のようなものがある。

 「天子将軍を始,末々に至る迄も,皆其通り。如来様とお誓ひの上でやに依て,夫々のつとめ,其家職,忠儀(義),孝行,太切に勤て,後世の一大事を心にかけねばならぬ。さうせぬといふと如来様へお約束が違ふに依て,何事も間違ぞや。兎角筋道其元能々考て,夫々の身の上,境界(涯)等の事を忘ぬやうに,能勤をして,後生を願はねばならぬぞや。」

 若者へは次のように語っている。
 「若きもの共は,此事を能聞れるが能ぞや。
先一番に,親を神仏同様に取扱ひをしやうよ。朝起たならば,親に向つて三度づゝ拝をいたせしなば,如来様 はお歓びでやぞよ。二番には,主人を太切に致し,三番には,非人,乞喰(食), 我より目下成ものを目上に見,貧成ものにても言葉を同じ様に掛。」

 尾張藩士が家康の死後の様子を訊ねたところ次の趣旨のことを述べている。
 「家康はよい業績もたくさん残したが,また家康の起こした戦乱によって悲しむ者も多かったから,今でも後世で如来様への御対面所が未出来ないでいる。家康の成仏いかんは藩士たちの信仰いかんにかかっているので,藩士たちはしっかりと信仰を固め,如来によくお願いしなければならない。」




その後の教団
 きのが亡くなった後、川越(現:埼玉県)出身の菊が庵主となった。
 安政5年(1858)に藩から布教差し止めが命じられた。神道でも仏教でもなく、キリシタンの嫌疑をかけられたからという。

 明治6年(1873)に一端廃寺届が出されたが、9年(1876)に曹洞宗の僧侶である小寺大雪が入信し、17年(1884)には法持寺説教所鉄地蔵堂となった。
 昭和4年(1929)には信徒の一部が金沢を拠点とする「一尊教団」を分立している。
 昭和27年(1952)に曹洞宗から離れて「宗教法人如来宗」、37年(1962)に「宗教法人如来教」となっている。

 『ブリタニカ国際大百科事典』では信者数3万3千人とされ、『日本大百科全書』では平成26年(2014)版『宗教年鑑』からの転載として寺院数34、信者数2,982人としている。

 境内はよく手入れされ、落ち着いた穏やかな時間の流れが感じられる、他のお寺にはない空気が拡がっている。

 





 2021/12/10