濃尾地震で39名の犠牲
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◇濃尾地震襲来
工女たちは昼夜2交代で働いていた。午前・午後の6時が交代時刻だ。
明治24年(1891)10月28日も朝の交代がすみ、昼番の工女たちは仕事を始め、夜勤の終わった者たちは、寮へ帰って疲れた体を休めようとしていた。 |
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ちょうどその時、6時38分、激烈な地震が名古屋を襲った。根尾谷断層を生んだ濃尾地震が起きたのだ。
上下に2寸(6㎝)、水平に1尺8寸5分(55.5㎝)の激烈な動きの記録を最後に名古屋測候所の地震計は壊れ、最大の振幅は記録されていない。
突然の大振動だが、蒸気機関からでる騒音のなかで働いている工女たちは、最初は地震に気づかずにいたという。そこへ煉瓦作りの建物が崩壊して煉瓦が四方に飛び散り、屋根の半分が工女たちの上になだれ落ちてきた。
煉瓦や重い梁、瓦に直撃され埋まった工女たちを残った者が必死に助け出す。納屋橋の南にできていた当時の先進医療を行える愛知病院から医師が派遣されたが、薬瓶が割れ十分な薬がなく応急手当をして病院へ送り込むのが精一杯だ。鮮血を垂らした工女たちの顔はふくれあがり、手が折れ、頭が割れたまま横たわっている。負傷者の8~9割は頭か顔に大きな傷を負っている。死者までは手が回らず、片隅に置かれたままだ。
即死35人(最終的には39人死亡)、負傷123人でそのうち75人が入院する大惨事である。煙突も崩壊し、機械も半数以上が破損、『濃尾震誌』には「再び業に就くことは蓋し容易にあらざるへし」と書かれている。
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下の写真は『尾張名所図絵』掲載の建物を
横から撮影
『濃尾大震災写真帖』 |
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◇地震で名古屋も大被害
当時の名古屋市内(尾張紡績は熱田町なので含まず)の被害は、『地震聚報』によると死亡187人、負傷197人、家屋は全壊1,356戸、半壊1,097戸となっている。
栄町に建っていた煉瓦造りの電信郵便局は2階以上が崩壊、名古屋城の石垣も崩壊や亀裂が走り、政秀寺・性高院なども倒壊、東別院の釣り鐘は竜頭がねじ切れて地上に落ちてきた。
幅下では液状化現象で泥水が1丈5尺(4.5m)ほど吹き上げ、堀川の納屋橋以北の河岸に建っている家屋は川に向かって倒れ、中には船を沈めたものもある。納屋橋の東岸は半径5間(8m)の円弧状に川側へ多少の地滑りを起こし、欄干の一部と橋のたもとの巡査派出所が川に崩落した。
◇雲心寺に慰霊碑、14年後に会社は三重紡績に併合
開業から2年3か月、名古屋の明るい未来を切り開くと思われた尾張紡績を襲った大災害であった。
この工場での犠牲者を弔う慰霊碑が翌明治25年(1892)4月に、隣の雲心寺門前に建てられた。碑文は、地震の恐ろしさを余すところなく伝えている。
5月には、苦難を乗り越え操業を再開した。その頃の職工は1,024人だが、年々規模を拡張し38年(1905)には2,100人余となったが、その年に名古屋紡績と共に三重紡績会社に併合され、尾張分工場となった。
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