木材集散地の利点
急速度用電動客車(愛知電気鉄道納)
『日本車輌製品案内』
日本車輌製造
 
 昔の鉄道車輌は木で造られていた。木材の集散地という特性を生かして熱田に日本車輌製造㈱が誕生した。昭和初期には自動車の製造も手がけ、現在は新幹線などの車輌や橋梁などの鋼構造物も手がけている。




 現在の車輌は金属とプラスチックで作られている。しかし昔の車輌は、家を建てるとき土台の上に木の柱を建てて造るように、鉄の台枠の上に木の柱を建てて造っていた。このため車輌の製造には大量の木材が使われた。

 名古屋では木材集散地の利点を生かして、明治29年(1896)に二つの車輌メーカーが誕生した。日本車輌製造(株)と(株)鉄道車輌製造所である。

◇明治29年創業
 日本車輌製造は明治29年(1896)8月に、堀内町(名古屋駅の東)に本社と仮工場を設けて発足した。
 その後、31年(1898)に熱田駅の東に広大な土地を確保し、翌32年に移転した。日露戦争(1904~5)後は各地で鉄道敷設が進んで需要が増え、海外でも南満州鉄道等への輸出が行われて、大きな会社へと発展していった。

 使用する木材は、チーク、及びオレゴンパインの外は内地産を用い、鉄材はイギリスからの輸入品を主体として八幡製鉄所製も一部使っている。
 当初は木製車輌だったが、大正末期になると堅牢で軽量な半鋼製や全鋼製の製造が始まった。しかしフレームや外装は金属に変わっても、車内の床や壁、窓枠、座席枠などは、太平洋戦争後もしばらくは木で造られていた。木材を多用するため、構内には貯木池が設けられている。その後、金属やプラスチックを使う現在のような車輌に変わっていった。


◇昭和初期 自動車の製造も
 さまざまな車輌を製造したが、昭和初期には自動車の製造も行っている。
 昭和5年(1930)、当時の市長であった大岩勇夫が一大自動車工業地帯をつくる「中京デトロイト構想」を発表した。これを受けて数社が協力してアメリカ車の「ナッシュ」をモデルにして自動車の製造に取り組み始めた。

『名古屋及熱田市街実測図』
明治33年

日本車輌 『名古屋案内』
 明治43年

『大名古屋市街全図』大正11年

 日本車輌が車体・内装・総組立・販売を担当し、大隈鉄工がエンジン、愛知時計電機が計器・電装品、岡本自転車自動車がシャーシー・トランスミッション・ステアリングなど、豊田式織機が鋳物部品を分担している。
 昭和7年(1932)3月に完成し、「アツタ号」と名付けられた。8年(1933)には2台販売、10年(1935)下半期には17台、12年(1937)には陸軍兵器本廠に7台、13年(1938)に横須賀海軍航空隊に納入などの記録がある。総製造台数は『オークマ創業一〇〇年史』では「30台のあつた号を送り出した」となっているが、確かなことは分からない。
 寄り合い所帯での製造のため、昭和9年(1934)には日本車輌と岡本自転車が脱退の申し出をしており、13年(1938)になると石油の統制が始まったこともあって製造は打ち切りとなった。



アツタ号
『日本車輌80年のあゆみ』
 昭和52年(1977)に熱田工場は閉鎖されて本社だけとなり、現在、車輌は豊川製作所で製作している。新幹線を始めとする鉄道車輌以外に、衣浦製作所で橋梁などの鋼構造物、鳴海製作所で杭打ち機など基礎工事用建設機械や発電機の製造も行っている。




 2024/06/20