境内の句碑
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この地は堀川に面する高台で眺望が良く、多くの文人墨客が訪れた。『尾張名所図会』には次のように書かれている。
「當山は、近く堀川の流に臨み、遠くは西南無邊の郊野を見渡して、春の曙・雪の朝、いづれも類なき風景なれば、昔より雅客の来遊大方ならず、詩歌俳の題辭も多けれど……」
今も境内にはいくつもの句碑が残されている。
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○芭蕉の句碑(時雨塚)
正面……「旅亭桐葉のぬしこころざし浅からざりければ、
しばらくとどまらんとせし程に」
「此うみに草鞋すてん笠しくれ」
裏面……「天明丙午夏五月 名古屋烏雀庵布磧創意
門人遠江国某某等建之」
左側面…「此碑はじめ神宮寺にあり。
故有て未の早苗月(明治4年5月)ふたたび此地に
移し置きぬ
再主 正瓢舎龍二 南窓亭乙耳」
芭蕉が亡くなって92年後の天明丙午(6年・1786)に名古屋の俳人浦野布磧が発案し、遠江(静岡県西部)の人たちが協力して建立した。当初は熱田神宮の神宮寺に建てられたが、明治の神仏分離により廃寺となったので未年(明治4年・1871)に妙安寺へ移転した。
前書きに出てくる旅亭桐葉とは、熱田在住の芭蕉の弟子である林桐葉のことで、芭蕉は熱田訪問の時に度々桐葉宅に滞在している。
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○士朗の句碑(2012年撮影 今では表面が剥落して読めない)
正面……「万代や山の上よりけふの月 」
井上士朗は名古屋の町医者をし、後には藩医となった人物である。1800年前後の名古屋俳壇の中心人物で「尾張名古屋は士朗(城)でもつ」と言われ、文化9年(1812)に亡くなっている。岳輅が文政元年(1818)に碑を建立した。
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○岳輅の句碑
正面……「満月のそのまま出たり十六夜」
左側面…「金城南乗西寺十二世之住 権律師源恵□乕足先生
文政四年辛己五月十一日終□」
岳輅は乗西寺の住職で俳人。乗西寺は針屋町(現:錦通呉服町交差点北東のブロック)にあった寺で、現在は千種区仲田に移転している。12代目の住職源恵は加藤曉台門下の有力な俳人で「虎足庵」「岳輅」の号を用いた。文政4年(1821)に亡くなっている。
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