督乗丸の漂流
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督乗丸は納屋町(納屋橋南西)の小島屋庄右衛門が所有する1200石積の船で、重吉はその船頭で半田村の出身、出帆時は数え29才である。
◇江戸からの帰途 漂流始まる
文化10年(1813)10月、尾張藩の米やそのほかの商品を積載し、総勢14人が乗り組んで師崎から江戸へと出帆した。無事到着して荷を下ろし、大豆700俵などを積み込んで帰国の途についた。11月4日、伊豆の子浦(現:南伊豆町)を出帆し尾張を目指したが、北東の風が強くなり夜に遠州(静岡県西部)沖で水主一人が海に落ちて行方不明になった。
その後漂流が始まり、食料や水が不足するなか10人が亡くなった。
◇カルフォルニア沖で救助
文化12年(1815)2月14日にカルフォルニアのサンタ・バーバラ(当時はスペイン領)沖でイギリス商船のフォレスター号に出合い、生き残っていた3人が救助された。1年3か月にも及ぶ長い漂流であった。
フォレスター号はサンタ・バーバラに寄港し、その後アラスカ(当時はロシア領)のシトカに到着した。シトカに居た露米会社(植民地経営や毛皮貿易などを行うロシアの国策会社)の総支配人からシトカに留まるよう勧められたが帰国することにした。
フォレスター号は予定を変えこの年の8月にカムチャッカ半島南東部のペトロパウロフスクまで3人を送ってくれた。ここで薩摩の永寿丸の漂流者3人と一緒になり、ロシアの保護のもと冬を越した。
◇帰国し 藩の水主に
文化13年(1816)5月に択捉島を目指して出航した。督乗丸生き残りの半兵衛は6月4日に亡くなり、残る5名は28日に島の近くで小舟に乗り移ってウルップ島に漂着した。その後択捉島に渡り、松前奉行所の役人に保護された。
一旦江戸に送られ、14年(1817)4月に幕府から尾張藩へ身柄が引き渡され、中山道経由で5月2日に名古屋へ帰ってきた。
重吉は藩の水主に召し出され、7石2人扶持が給与されることになった。一般の水主は5・6石なので破格の待遇である。名字帯刀の身分になり、小栗重吉と名乗り、貴人が七里の渡しや三里の渡し(佐屋街道)を通るにあたり、藩が船を提供する時の乗り組みなども行った。
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◇供養塔建設に奮闘
命を永らえ生活に困ることもない環境であったが、心に残るのは漂流中のことである。もし生き残ったものが居たら、亡くなった者のために石碑を建てて供養しようとお互いに言い交わしていた。 |
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重吉は石碑の建立にかかる多額の費用を工面するため、1年半ほど勤めた水主をやめてしまった。様々なことをして家族を養いながら、異国から持ち帰った品々を人々に見せて助力を請い資金を貯めた。
『金明録』にその様子が次のように書かれている。
「先達而おろしや国より戻りし知多郡半田村重吉、此比、長者町(広小路とかばやき丁間)中屋喜蔵方に逗留して、ばん国の噺并持返りし色々の道具等を見せに諸所へ歩行、大分評判有之。毎夜、聞人多き由」
念願が叶い、多くの人が参拝する笠寺観音境内に石碑を建てることが出来た。
しかし石碑を参拝する人は少なく、寺では無縁扱いで境内の一隅に放置されていた。安政(1854~60)頃、たまたま笠寺観音を訪れた成福寺の四代和尚である的山がこれを見てもらい受け、成福寺に移設した。
『船長(ふなおさ)日記』には「成福寺は元来擅徒少く、主として旅人の行路病死の霊や、無縁の霊を弔ふ寺であったから、笠寺に於て無縁扱ひをせられて居た碑石を貰ひ受けて来たのであるといふ」と記されている。
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