今はなき 熱田神宮の寺
『東海道分間延絵図』
亀頭山 神宮寺
 今では神社と寺は別のものだが、江戸時代以前の日本は神仏習合だったので大きな神社には寺があった。熱田神宮にも神宮寺があり各時代の有力者に庇護されて立派な伽藍が並んでいた。

    亀頭山 神宮寺   鬼祭りで賑わう   神仏分離で廃寺



亀頭山 神宮寺
   明治になるまで、熱田神宮には亀頭山神宮寺という寺があった。場所は二十五丁橋から海蔵門(現:信長塀)に至る区域である。

◇神仏習合により神宮寺建立

 六世紀半ばに仏教が伝来したが、それ以前からあった神道と融合して神と仏は同一の存在とする神仏習合の宗教になった。1000年以上の長きにわたり日本独自の宗教として発展し、大きな神社には神宮寺が建てられている。

 熱田神宮の神宮寺は、弘仁2年(811)に勅命によって弘法大師(空海)が、みずから神宮の本地仏として愛染明王の像を、八剣宮の本地仏として不動明王の像などを刻み安置したのが始まりという。

 承和14年(847)に勅命で整備され、如法院1か所、塔が3基、別院が3か所有る伽藍になっている。

 寛弘元年(1004)には、尾張の国司である大江匡衡(まさひら)が大般若経600巻を奉納するなど、有力者の庇護もあり伽藍が建ち並ぶ立派な寺であった。しかし、武士の台頭とともに寺領を失い衰退していったが、戦国時代初期の享禄年中の絵には五重塔や多宝塔が描かれ、かつての繁栄ぶりがしのばれる。

 慶長2年(1597)に火災で焼失し、11年(1606)に豊臣秀頼が再興したが再び衰退して薬師堂が残るだけとなった。
 元禄16年(1703)に将軍綱吉が再建した。新たに医王院を建立し、愛染堂や不動堂を境内へ移設するなどして伽藍を整えている。毎月初日には、神宮寺の僧が神宮の神前で大般若経の転読を行っていた。

 この寺は、通称「大薬師」と呼ばれていたが、本尊である薬師像が1丈6尺(4.8m)の大きな座像であったことから付いた名である。


熱田社享禄年中(1528~32)之古図 『尾張名所図会』



江戸時代後期の姿 『尾張名所図会』



鬼祭りで賑わう
 この寺で毎年1月5日に行なわれる修正会(しゅうしょうえ)は鬼祭りで有名だった。

 加持祈祷が終わると、鬼の姿をした者を2人で連れ出し、大松明を持たせてお堂の周りを走り回る。縁側にはたくさんの参詣人が高下駄を履いて集まっており、拍子を合わせて踏みならした。大声を上げたりホラ貝を吹いたり鉦や太鼓を打ち鳴らし、お堂も揺れるほどだった。
 お堂を3度回ると後ろの池に鬼が持つ松明を投げ入れ、参詣者が皆で叩き消して終わりとなった。


『尾張名所図会』





『張州雑志』


神仏分離により廃寺
 江戸時代中期から、儒教や仏教が日本に入る以前の独自の文化や思想を研究する国学が盛んになってきた。その流れの中から復古神道や尊王攘夷の主張が生まれ明治維新の思想的背景になっている。

 明治元年(1868)3月13日、太政官布告により王政復古と祭政一致が宣言され神祇官が復興された。引き続いて17日には神祇事務局からの達で、社僧の復飾(還俗すること)が指示され、28日には仏像をご神体にしたり本地仏を社前に置いている神社は取り除くように指示されている。

 このような時代の流れのなか、明治元年(1868)7月1日に神宮寺は廃寺となり、翌2日には建物を取り壊し経典などを焼却して、長い歴史を持つ寺が消えていった。

 廃仏毀釈の荒波で、[熱田神宮へお参りすると鳥居の前には、下馬札と一緒に「坊主、不浄の輩入るを許さず」と墨痕淋漓と大書した制札が立っておった。]と永平寺の管長であった北野禅師が『戊辰物語』に記録しているような時代である。

 神宮寺は消えたが、後に塔頭の不動院が高藏公園の北に復興されている。


『熱田神領字入図』
文化元年(1804)







『名古屋明細図』
明治19年(1886)




 2023/03/17