今はなき大鳥居
熱田神宮 一の鳥居
 新尾頭交差点のすぐ南の所に、かつては熱田神宮の一の鳥居があった。
 非常に大きく権威のある鳥居で、人は鳥居を避けて通行していた。


    高さ10m 一の鳥居   鳥居の下は通行不可   大事件勃発



高さ10m 一の鳥居
◇熱田神宮 八つの鳥居
 熱田神宮には八疆(きょう)の鳥居と言って、八つの鳥居が設けられていた。疆とは境界のことで、鳥居の内は神域である。
 『尾張名所図会』には次のように書かれている。
  下馬鳥居 海蔵門の南にあり。
  中鳥居  海藏門外の西、神幸道にあり
  東鳥居  春敲(しゅんこう)門の東にあり
  西鳥居  鎮皇門の西、白鳥にあり
  濱鳥居  南の海邊にあり
  築出鳥居 南の方つき出し町にあり
  二鳥居  北の方幡綾町にあり
  一鳥居  二鳥居の北、尾頭町にあり
       高さ三丈五尺、柱圍一丈、檜造丹塗なり


◇一の鳥居は高さ10m
 ここにそびえていた一の鳥居は高さが3丈5尺(10.6m)というから、3階建ての建物ほどの高さで、柱は周囲1丈(3m)という大きな朱塗りのものであった。


熱田神宮の鳥居  下図『熱田神領字入図』
〈下図に記載がない中鳥居と築出鳥居は『熱田図』(安政以前新訂)を参考に記入〉



鳥居の下は通行不可
◇鳥居は神様の道……人は外を通行
 鳥居が建つのは道路の上。多くの旅人が通る美濃街道であり、名古屋と熱田を結ぶ幹線道路でもあった。

 鳥居の所だけ道幅が広くなっている。これは鳥居の下は神様が通る場所なので、人間は遠慮して鳥居の両側を通行するという習慣だったからなのだ。
 『尾張年中行事絵抄』の馬の塔の風景画でも、鳥居の両側を行列が進んでいる。『尾張名所図会』の寒中大宮夜参りの絵でも皆鳥居の下を避けて通っている。

◇偉いもの 一の鳥居
 『天保會記鈔本』に収録されている天明3年(1783)の落首(詩歌の形式で行った諷刺などの落書き)に、「えらひもの、一の鳥居と岐阜奉行、成瀬のやつこ、麦の御直段」と書かれるほどの偉い鳥居だった。


『熱田神領字入図』 1804頃
 

熱田宮 馬頭会 場慣らし
『尾張年中行事絵抄』
※鳥居の下は避けて行列

「東海道名所之内 熱田一の鳥居」 一英齋芳艶 画
※「御上洛東海道」と呼ばれるシリーズの一枚。
 文久3年(1863)に第14代将軍家茂が、3代将軍家光以来229年ぶりに上京する風景を描いたもの。
この絵では鳥居の下を進んでいる。

一の鳥居(寒中大宮夜参りの図) 『尾張名所図会』
※鳥居の下は避けて通行
 


大事件勃発
◇鳥居の下、棺桶を通す……鳥居は建て替え、犯人は10里外へ追放
 この一の鳥居をめぐって、天保10年(1839)10月に大事件が起きた。
 『金鱗九十九之塵』によると概略次のような内容である。

 白鳥の御材木所手代である久米儀十郎は代々の日蓮宗信者であった。
 父親が亡くなったので、檀那寺の城下東寺町本住寺の僧を呼んで出棺し寺へ向かった。一の鳥居にさしかかったとき儀十郎は「自分の宗派では問題ない。鳥居の下をまっすぐゆけ」と言って、鳥居をくぐって棺を進めさせた。
 このことを聞いた熱田大宮司は「前代未聞のこと」と怒り、寺社奉行へ訴え、鳥居はすぐに取り壊して取りあえず仮の物を設置した。取調が行われ、儀十郎は入牢し本住寺は閉門を命じられた。

 それから2月後の12月、熱田方御手子組の吉田善之助が問題を起こした。善之助は儀十郎の友人で同じ日蓮宗信徒であった。友人が囚まったことに腹を据えかね、夜に仲間2人と共に仮設の鳥居へ刀で切りつけたのである。これも露見し、閉門を命じられた。

 鳥居は翌11年9月に建て替えが行われ再び立派な姿を現した。
 儀十郎と善之助の2人は12年に城下より10里(40㎞)外への追放処分となった。

 『藩士大全』によると
 久米儀十郎は白鳥御材木奉行帳元手代で、7石2人扶持で加増米3石を支給されていた。天保12年9月11日に城下から十里外への追放で、尾張領外への居住は不可との処分がなされたとのことである。

◇事件は芝居で上演
 この事件は広く知られたようで、儀十郎たちの追放処分が決まる前に江戸で芝居が上演された。
 『松濤掉筆』に天保12年6月に江戸で「新刻名古屋噺」という芝居が上演されたが、2日興行されただけで幕府から上演禁止になったと書かれている。




 2021/08/10改訂