新尾頭交差点のすぐ南の所に、かつては熱田神宮の一の鳥居があった。 非常に大きく権威のある鳥居で、人は鳥居を避けて通行していた。 |
高さ10m 一の鳥居 | 鳥居の下は通行不可 | 大事件勃発 |
大事件勃発 |
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◇鳥居の下、棺桶を通す……鳥居は建て替え、犯人は10里外へ追放 この一の鳥居をめぐって、天保10年(1839)10月に大事件が起きた。 『金鱗九十九之塵』によると概略次のような内容である。 白鳥の御材木所手代である久米儀十郎は代々の日蓮宗信者であった。 父親が亡くなったので、檀那寺の城下東寺町本住寺の僧を呼んで出棺し寺へ向かった。一の鳥居にさしかかったとき儀十郎は「自分の宗派では問題ない。鳥居の下をまっすぐゆけ」と言って、鳥居をくぐって棺を進めさせた。 このことを聞いた熱田大宮司は「前代未聞のこと」と怒り、寺社奉行へ訴え、鳥居はすぐに取り壊して取りあえず仮の物を設置した。取調が行われ、儀十郎は入牢し本住寺は閉門を命じられた。 それから2月後の12月、熱田方御手子組の吉田善之助が問題を起こした。善之助は儀十郎の友人で同じ日蓮宗信徒であった。友人が囚まったことに腹を据えかね、夜に仲間2人と共に仮設の鳥居へ刀で切りつけたのである。これも露見し、閉門を命じられた。 鳥居は翌11年9月に建て替えが行われ再び立派な姿を現した。 儀十郎と善之助の2人は12年に城下より10里(40㎞)外への追放処分となった。 『藩士大全』によると 久米儀十郎は白鳥御材木奉行帳元手代で、7石2人扶持で加増米3石を支給されていた。天保12年9月11日に城下から十里外への追放で、尾張領外への居住は不可との処分がなされたとのことである。 ◇事件は芝居で上演 この事件は広く知られたようで、儀十郎たちの追放処分が決まる前に江戸で芝居が上演された。 『松濤掉筆』に天保12年6月に江戸で「新刻名古屋噺」という芝居が上演されたが、2日興行されただけで幕府から上演禁止になったと書かれている。 |
2021/08/10改訂 |
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