平安時代創建
法 持 寺
 堀川東岸に鎮座する法持寺は、今でも広い境内の寺院だが、戦前までは今の宮中学まで境内であった。かつては10の塔頭を擁する大寺院で、日本武尊にちなむ伝承もある寺であった。
 昭和の頃には大相撲の美保ヶ関部屋の宿所になり、横綱北の湖などが稽古に励んだ場所でもある。

    古刹で多くの塔頭   和尚の犬は 父の生まれ変わり   敷地の多く 宮中学に



古刹で多くの塔頭
◇平安時代創建の古刹
 白鳥山法持寺は、曹洞宗の寺で天長年間(824~34)に空海が創建したと伝えられ、熱田神宮東南にある円通寺の末寺である。
 一時衰退していたが、円通寺の2代目住職である明谷義光(1482年亡)が再興した。最初は宝持寺であったが、承応年間(1652~5)に現在の寺号に改めている。
 元和年間(1615~24)に火災に遭い、宝暦7年(1757)にも火災で全焼した。

   ◇江戸時代 境内に多くの塔頭
 江戸時代は多くの塔頭があった。耕雲院、月笑軒、洗月院、三笑軒、一雲院、梅蕚院、東陽軒、太虗院、高岩院、無翁院の10寺を数えたが、『名古屋市史』(大正年間刊)の頃には月笑軒、洗月院、梅蕚院の3寺が末寺として残るだけとなり、他は廃絶している。
 現在は洗月院(神宮西駅の西へ移転)、梅蕚院の2寺が存続している。

 また、末寺も非常に多く『名古屋市史』は23か寺を掲載し、ほとんどは現在の名古屋市域であるが、遠方では京都府南丹市の林泉寺が含まれている。

 境内に白鳥社があったが、そこに残る枯れた古木は、日本武尊が亡くなり白鳥となって訪れた時に、一緒に飛んできた白幡が引っかかった木と言い伝えられてきた。
 また、この寺は熱田神宮の大宮司を務めていた千秋(せんしゅう)家代々の菩提所である。

 
『尾張名所図会』


『熱田図』 安政(1854~60)以前新訂




和尚の犬は 父の生まれ変わり
 元和年間(1615~24)火災にかかったが、慶呑和尚が再興した。慶呑和尚のかわいがっていた犬が、和尚の父親の生まれ変わりであったという話が『尾張名所図会』に載っている。

 寛永のはじめ、当時の住持慶呑和尚、遠江浜松の普済寺の輪番に詰めけるに、その町より薄黒の犬を一疋引き来りしを、長老愛して飼ひけるに、その夜の夢に、彼の犬来りて、我その方の親なりしよし告げけれども、浮きたる夢なりと思ひて心にかけざりしが、次の夜の夢に犬また来りて、我実にその方が親なり。連れ帰りて飼はずんば汝を喰ひ殺すべしと告げけるにぞ、
 慶呑驚き、その後熱田に連れ帰り、白鳥にて犬に地をふませず、座敷にのみ居ゑ置き、食をも長老と相伴してくはせ、夜は同じ閨にふさせけり。寛永10年(1633)、この寺に江湖ありて、諸国より雲水ども集りけるが、長老の犬と同居同食せるを怪みにくみ、江湖を分散せんといひけるに、長老しかじかの次第を語りしが、その翌年犬は死したるを、本秀和尚慥に知りて語りける。

 江湖(ごうこ)の江とは揚子江、湖とは洞庭湖のこと。中国で昔、馬祖は江西に住み、石頭は湖南に住み、参禅の徒が、その間を往来して鍛練を受けた故事から江湖は、参禅の徒が集まる所の意。この場合は、夏安居(げあんご)の意で、陰暦4月16日から7月15日まで、僧が外出しないで、一室に籠って修行することである。

 慶呑の夢の中に、愛犬が現れ、自分はお前の親だという。白鳥に連れて帰らないならばお前を食い殺すと告げる。驚いた慶呑は、愛犬を座敷に上げ、食事も一緒に食べ、寝ることも愛犬とともにした。夏安居で法持寺に来た僧たちは、犬が座敷に座り、ともに食事をする姿を見て怒り、夏安居を解散し、郷里に帰るといいたてる。理由を話して、僧侶たちをなだめたという話だ。
 犬は翌年に亡くなったが、その時、慶呑は実の親を送るように、天蓋に幡などをたらし、壮麗な葬儀を行った。亡くなった日から3日間、懴法をとなえたという。




敷地の多く 宮中学に
 多くの塔頭を擁し広い境内の法持寺だったが、太平洋戦争の空襲で全焼し、戦災復興により境内の南半分は宮中学に変わっている。

 昭和32年から30年間、大相撲の名古屋場所の時に美保ヶ関部屋の宿所になっていた。
 この部屋は、横綱北の湖、大関増位山などを輩出した名門である。その関係で、山門には稽古で使った鉄砲の柱から作った大きなすりこ木がかけられ、境内には北の湖の土俵入り姿の石像や土俵跡の石碑が建っている。


昭和7年 1/25000

昭和43年 1/25000
 





 




 2021/12/03